火星の月の下で

日記がわり。

◇市川昆の東京五輪

ヒストリーチャンネルでで、故・市川昆監督の『東京オリンピック』をやってたので、見るとはなしにぼんやり見ていた。
全部を通してしっかりと見たわけではなく、記憶にあったところをメインに見ていたんだけど、記憶の中にある東京オリンピックって、モノクロなんだよなぁ。
それがカラーで見てると、なんか違う記憶を見ているような妙な感じ。
リアルタイムでの記憶としては、一番印象深かったのが、東洋の魔女、そして三宅の重量挙げと、柔道のヘーシンク、猪熊、ってあたり。
まだ当時は子供だったので、そのあたりの印象の方が強くて、マラソンの円谷とか、男子100メートル、なんてのは、かなり後付の記憶によるところも大きかった。
今回、一番興味を持ってみていたのが、その最後のマラソンで、ぼんやりと、アベベがゴールした後も屈伸運動していたり、競技場内に入ってから円谷がヒートリーに抜かれたこととかは覚えてたんだが、アベベがこの大会の6週前に盲腸の手術をしていたとか、この大会の時点での世界記録がヒートリーだったこととか、は全然憶えてなかった。
それと、ひょっとするとフィルムの劣化だったのかも知れないが、当日の東京の曇天も印象深くて、なんとなく公害の曇り方のような印象がないでもなかった。
この時点で、四日市や尼崎の工場煤煙による公害はまだ解決してなかったはずだから、ひょっとしたら、公害による曇天だったのかな。
だとしたら、北京五輪をまったくの他人事としは笑えなくなるかなぁ、とか思ってしまった。
まぁ、北京五輪の曇天と比べれば、まだまだとってもキレイな曇り空、ではあるけどさ。
それにしても、劇的だね、あの競技場に入ってのヒートリーと円谷。
日本人なんで、結果がわかってても「円谷がんばれ」という気持ちになってしまってた。
もちろん、この4年後に円谷を襲った悲劇、というのも脳裏にはあったことではあるが。
第4位にも英国の選手が入っていたから、この大会で、英国は2位と4位に入ってたことになるのか、これも知らなかった。
それと、このマラソンに出てた日本選手、円谷、君原と、もう一人が宇佐美だと思ってた。完全に勘違い。正解は、寺沢選手だった。
アベベももう故人だし、いろいろと感慨のあるレースですな。
どうでもいいが、陸上選手というと、父と村社講平氏が知己だったこともあって、もう選手生活はとっくに退いていたが、晩年、少しだけ親しくさせてもらったことがある。