火星の月の下で

日記がわり。

▽永久欠番について

キッズで『侍ジャイアンツ』をやってるんだが、番場蛮の背番号が永久欠番4だったことについて言及しているシーンが(原作連載時に)記憶がない。
手元にコミックスがないので、検証できないんだが、連載時、「あれ?永久欠番なのに言及がないな?」と思った記憶と、『ちかいの魔球』の二宮光が永久欠番の14(沢村栄治)、『巨人の星』の飛雄馬永久欠番の16(川上哲治)だったから、巨人軍エースものは永久欠番でなくちゃなぁ、と思った記憶と両方あるので、ひょっとしたらちゃんと言及があったことに、あとで気づいたのかもしれない。そこんところどうも記憶がはっきりしない。
つうことで検証したいしたいと思いつつ、ズルズルと時を重ねているので、今後のメモのために資料としては中途半端だけど、とりあえず、記録しておく。
さて永久欠番についてだが、私の子供の頃は、読売、阪神、中日、そして球団譲渡のため短期間だけだったが西鉄の4球団が制定しているのみで、まだ近鉄や広島に永久欠番が誕生する前だった。
このうち、一番最初が読売で、14と4、つまり沢村栄治黒沢俊夫の背番号に与えられた。昭和22年のことだ。
沢村栄治の偉業に関してはもう必要ないだろう。ここでは黒沢俊夫について。
戦後間もなくの時期に、悲運の死をとげた黒沢俊夫だが、その人柄、野球への情熱、戦後混迷の時代にあった職業野球をすくった人物としての欠番で、奇しくも大リーグ最初の永久欠番となったルー・ゲーリックと同じ4であった。
その業績、伝えられる人柄もさることながら、彼が生え抜きではなく外様だった、ということにけっこうひきつけられる。戦争をはさんでいたため、実働10年と少し、しかも読売に在籍していたのは、わずか3シーズンである。
まだ永久欠番がどういう意味をもってくるか、についてはあまり深く考えられてなかった時代、というのもあったかも知れないが、この他球団出身者に永久欠番を与えている、というあたりに、江川事件以前の読売球団に、職業野球を引っ張っていかねば、という気概というか、自負があったことを感じさせるエピソードだと思う。
ちなみによく知られているように、読売にはもう一人他球団出身の永久欠番選手がいる。
34番、400勝投手・金田正一である。
読売球団は現在まで6人の永久欠番を制定しており、制定順に、14,4(14と4は同時)、16(川上)、34、3(長嶋)、1(王)である。
一方これとは対照的なのが中日球団で、読売の14と4、阪神の10(藤村富美男・昭和33年)に続いて、15(西沢道夫)を昭和34年に、そして10(服部受弘)を昭和35年に制定している。
今日に至るまで、中日球団の永久欠番はこの2つだけで、普通に考えると「あれ?」と思ってしまうところである。
中日球団の功労者といえば、西沢とともに、杉下の20番、天知の30番が当然永久欠番に入っていそうなもんだけど、現時点で制定されていない。
一説には20番は保留中とも言われているが、杉下が他球団に移ってしまったり、そこでコーチをしていた関係から積極的ではない幹部もいるらしい、という噂もあった。
天知俊一監督(昭和29年・優勝時の監督)に関しては、当時八百長疑惑があって、天知は必死で身の潔白を訴え続けたが、球団内部からそういう噂、あるいは足のひっぱりがあって、野球以外の面で相当つらい思いをしたようである。
とはいえ、その後の処遇を見ているとそんな風にも感じられないのだが、古い週刊誌なんかを見ていると、チラチラそういった噂が書かれていたので、そのせいもあったのかもなぁ、と思っていた。
一般に球団の内紛、と言うと、藤村排斥事件で一躍有名になった阪神球団が有名であるが、それ以前は中日のお家芸だったので、そういったことが尾を引いているのかな、とも思える。
後年、「背番号30は監督の番号なのでふさわしくない」という理屈も出てきたようだったが、かなり後付けの印象だった。
服部も名選手には違いなかったろうけど、中日の球団史を考えると、まず西沢、杉下、そして天知ではなかったろうか、と思うところだ。
阪急と南海についても少し書いておく。
パ・リーグ最古の歴史を誇る阪急、そして山本(鶴岡)監督の元、多くの優勝を重ねたパ・リーグの名門球団南海は、長い間「永久欠番」という読売が始めた制度そのものに反対だっため、制度があれば当然授与されているであろう名選手たちには与えられてなかった。
70年以降、そういう決定を下した幹部が引退して、特に阪急では永久欠番をもうけてもいいのではないか、という風潮にはなってきてたが、結局制度としては残らずじまいで、オリックスへと譲渡してしまった。
そこで勝手に妄想として、両球団ならどういうあたりが永久欠番になっていたか、いろいろと妄想するのも楽しいので、現時点での感想というか想いとして記録しておく。ただし、背番号を知らない選手もいるので、選手名で記載しておく。
阪急軍(のちブレーブス、現在のオリックス)。
宮武三郎、山下実(創設期の看板選手)、森(阪急最初の30勝投手)。
天保義夫、今西錬太郎。戦後1リーグ時代のダブルエース、天保さんは2軍コーチとしても長く活躍。
梶本、米田、石井、足立。1960年代の4枚エース。石井と米田は他球団に行っちゃったからちょっと無理かな。しかしガソリンタンク・米田さんは300勝投手だし、なにか名を残してやってほしい、とは思うし、足立さんは昭和51年日本シリーズ終戦の奇跡とも言える粘投が今も瞼の裏に焼きついて離れないので、なんらかの形で名を残してほしい。オリックス球団は、旧阪急選手に冷たすぎると思う。
長池、福本、山田、加藤。長池と福本に関しては、制定されてなかっただけで、事実上永久欠番だったような時期もあったけど、今はオリックス球団になっているので消滅。
スペンサー、ブーマー。阪急球団史に残る最強の外人選手。スペンサーは結局タイトルはとれなかったけど、球団に残していってくれたものはとても大きかったと想う。外人では、俊足バルボン、ルーツが熊本県出身の日本人だったマルカーノ、俊足ウィリアムスなんかも忘れられないけど、阪急の外人といえばこの2人。
南海軍(のちの南海ホークス、現在のソフトバンク)。
神田武夫。「鳴いて血を吐くホトトギス、投げて血を吐く神田武夫」の神田である。ホークス球団は、あの病をおしてマウンドにあがり続けた戦前の名投手の霊前になにか報いてやってほしいと思う。
山本(鶴岡)一人。実は監督としてだけではなく、選手としても一流だった。だが、今日、選手山本としては、対阪急戦でのエラーで阪急に「無安打勝利」を献上してしまったことの方が有名かな。(笑)
柚木進、飯田徳治、蔭山一夫、木塚忠助岡本伊三美。柚木は宅和、木村とともに、杉浦以前のエース。他はご存知400フィート打線。黄金の内野陣。特に岡本さんの功績は計り知れないと思うので、なんとか報いてほしい。
野村克也。退団時のあのすさまじいケンカを思うと、たとえ親会社が変わっててもちょっと無理だとは思うけど。(笑)
杉浦忠。ホークス史上最強の投手。
皆川睦雄。最後の30勝投手。
門田博光。移籍したから無理かも知れんけど。
こんなところかな、まぁ、妄想半分、ということで。(笑)