火星の月の下で

日記がわり。

▽三宅大輔氏のこと

昨日、永久欠番について書いたとき、関係ないので書かなかったが、昭和51年の日本シリーズで思い出すことがあったので、これもメモしておく。
昭和51年、1976年の日本シリーズ。上田阪急と長嶋巨人の対決。
この時点でのシリーズ対戦成績は、川上巨人の9連覇中に西本阪急が挑むもことごとく敗退し、阪急側からみて0勝5敗。試合数でみても8勝20敗*1
一方長嶋巨人の方は、前年の就任1年目、今に至るも読売巨人史上唯一の最下位を喫し、そこから不死鳥のごとく優勝。
監督がそれぞれ上田、長嶋に代わって、6度目の対決、どちらも負けられぬ一戦となる。
阪急3連勝の後、上田の投手用兵でのミスが続き*23連敗を喫した。
前年の最下位からの優勝に続く長嶋巨人の劇的な逆転を信じていた巨人ファンで埋まった後楽園球場の第7戦*3で、足立が奇跡的な粘投で完投勝利し、阪急悲願の打倒巨人を達成したのだが、その後発売された週刊ベースボールで、実に興味深い記事が載っていた。
「阪急優勝に感慨深げ〜三宅大輔氏」
老衰のため自宅で静養中だった阪急初代監督・三宅大輔氏へのインタヴューが載っていたのである。
この三宅大輔氏、実は大日本選抜軍の監督を務めた後、読売巨人軍・初代監督に就任していて読売退団後、阪急の初代監督になっていたのだ。
つまり、この年対決した阪急、読売両球団の初代監督だったわけ。
三宅氏は、読売の監督を受けた後、最初のリーグ戦が始まる前に解雇されているが、このときの勝率が9割を越えていた。
まだ職業野球リーグ戦が始まる前だったので、読売はアマチュア強豪のチームと試合をしていたためだが、当時の認識としては、プロがアマに負けるとはどういうことだ、という理由だったようである。要するに9割の勝率がすごいという評価ではなく、1試合でも負けたら無能のレッテルだったようだ。
リーグ戦が始まる前なので、プロ同士の対戦ではないものの、9割の勝率で首を切られた監督というのは、たぶん例がないだろう。
記事によると病床に沈んでいた三宅氏は、阪急の日本一をことのほか喜び、「山田や福本が優勝報告に来てくれんかなぁ」と語った、とある。
三宅氏はその1年半後、亡くなっている。

*1:9連覇中の読売に負け続けだった阪急だったが、8勝20敗のうち、唯一足立が5勝4敗で勝ち越していた。

*2:この年の阪急は、山田、山口、足立、戸田、白石の5本柱で、このうち山口は先発、抑えの両用、足立と白石はベテランゆえに登板間隔が必要、よって先発の柱としては、山田と戸田が考えられていたが、上田は山口、山田のフル回転で、足立は第2戦に先発したのみ、戸田に至ってはついにこのシリーズ、先発での出番はなかった。

*3:さらに加えて、この直前の第6戦が、7点差をひっくり返しての勝利だったことも拍車をかけていた。