火星の月の下で

日記がわり。

○プロ野球回顧(二)〜20勝投手が3人いた球団

前回同様、球団名は通称名で書く。
昨年の田中投手の24勝0敗というのはすさまじい数字だったのだが、この勝率10割と同時に、25勝の寸前までいった点も少し注目していた。
20勝投手が数年に一度しか生まれない昨今、シーズン20勝するだけでも大変なことなので、25勝というと1978年の鈴木啓示が最後である。
田中の前の20勝投手が2008年の岩隈久志の21勝、21世紀で区切っても、この2人にあと2003年の井川慶斉藤和巳(どちらも20勝)を加えて4人だけである。
ローテーションが確立されて投手の投球数が科学的にとらえられはじめたこと、優勝する球団と最下位の球団の差が昔ほど大きくなくなっていること、なんかが理由だろうけど、かつては20勝して初めて一人前の投手、なんて風潮の時代もあった。
昭和29年(1954年)この年の最多勝利は、セントラルが優勝した中日・杉下茂の32勝、パシフィックが南海の高卒新人宅和本司と近鉄田中文雄の26勝だった。
そして特筆すべきはこの年、両リーグあわせて12人の20勝投手が出現しているのである。
パシフィックリーグには、宅和と同じく高卒新人で20勝を上げた阪急・梶本もいたが、新人王は最多勝を取った宅和の手に渡り、梶本は高卒一年目で20勝上げながら新人王がとれなかった。今だとちょっと考えられない。
投手の勝ち星を考える際によく言われるローテーション・システム。
一般に巨人、阪急、阪神で監督を務めた藤本定義監督が導入したものだ、と言われている。
誰が最初にやったか、という起源問題は見方や定義、主観によっても変わってくるだろうけど、定着させた、という点で藤本を上げるのはそう間違ってもいないだろう。
藤本がローテーションシステムをやっていた頃、大監督と言われた石本や三原でさえ、エースの連投はあたり前、という風潮。
しかし藤本がやっていたローテーション・システムは今とはかなり違っていて、絶対的エースを中二日から三日で回していくもので、現在の中五日が普通になっている今のローテーションと比べると、けっこう登板数は増える。
ただそれさえも、連投があたり前だった時代においては、かなり投手に優しい、革命的なやり方だったのだ。
藤本の元で300勝投手が3人(米田、小山、スタルヒン)も育っているのは、もちろん本人の才能や努力もあったろうけど、このシステムの優秀さによるところがかなりあったのだと思う。
そんな各チームのエースが普通に20勝していた時代、だいたい70年代後半くらいまで、一つのチームにエース級が2人出てくる、その結果同じ年、同じチームに20勝投手が2人出てくる、というのも頻繁に、というほどではないけど、たまにあった。
藤本がローテーションシステムを導入した最初、戦前の巨人では沢村とスタルヒンが、そして戦後阪急監督時代の昭和32年(1957年)に上記・梶本(24勝)と米田(21勝)、そして阪神監督時代の昭和37年(1962年)に小山(27勝)と村山(25勝)、その2年後の昭和39年(1964年)にバッキー(29勝)と村山(22勝)と、何度もダブルエースがそろって20勝以上、というチームを作り上げている。
そしてこの1962年と1964年という年は、同時に阪神がセントラルを制した年でもあった。
藤本監督率いる阪急のダブルエースが20勝した1957年は優勝できなかったが、ワタクシなどは20勝投手が2人いて優勝できなかったチームというと、なんといっても巨人9連覇の9年目、昭和48年(1973年)の阪神が思い出される。
この年は池田のバンザイやら長嶋の完全試合阻止やら、実に多くのエピソードが生まれた年だが、その掉尾を飾ると言っていいのがあの最終戦阪神巨人戦だったろう。
この年、阪神のエース江夏が24勝で最多勝、そしてサブマリン投手上田二朗が22勝をあげて、江夏とともにローテーションの柱となって活躍した年である。
上田の20勝は生涯でこの年だけ。そして、同じチームに20勝投手が2人いた、というのもこの年の阪神が最後である。
このように、20勝投手が2人いても優勝できない、なんてチームもあった。
だが、さらに上、20勝投手が3人いたのに優勝できなかった、という年、チームがあったのだ。
昭和39年(1964年)東映フライヤーズ
エース土橋が20勝、日本一速い剛速球と言われた尾崎が20勝、そしてこの年4年目で、それまでの3年間で6勝しかしていなかった嵯峨健四郎が21勝を上げる。
だがチームは優勝はおろか、2位にすらなれず3位。
このときの監督は、巨人軍第二次黄金時代を作った水原茂
3人も20勝投手がいて優勝できなかった、というのは、今日の目で見るとかなり奇異に感じるが、土橋が20勝16敗、尾崎が20勝18敗、そして嵯峨が21勝9敗と、けっこうな負け数を背負っているのである。(嵯峨はそれほど負けたわけではないが)
要するに、先発も中継も含めて、この3人しか実働できる投手がいなかった、という風にもとれる。
ちなみにこの年の優勝球団はパシフィックが南海、最多勝は前年、世紀の大トレードで阪神から移籍してきた東京・小山の30勝であった。