火星の月の下で

日記がわり。

○十代には戻りたくない

自分の中の記憶としては、十代の頃(だいたい昭和40年代に相当)って、創作活動を始めて、外の世界に接触して、そこで全共闘世代やらマルキシストやらとの不毛な戦いをやってけっこう落ち込んで、専門は結局そっちの方に進めず、みたいな苦い感覚と、自分の中で幻想文学に対する嗜好性がいっそう深まっていった時代、という認識だった。
それゆえ、あの暗い十代、中高時代には戻りたくない、という感覚がものすごく強かったんだけど、昨日の日記に書いたように、中学校時代(1960年代後半)の、学校とかクラスとかで作ってた文集だの歌集だのを見ていると、自分が対外的にとんでもなく痛いことを書いてて、別の意味で戻りたくないと思ってしまった。(笑)
さすがに恥ずかしいので、記憶ともども墓の中までもっていくつもりだが、同じ物を当時の同級生の中には、まだ保存している人がいるんだろうな、と思うと、悶絶して転がり回りたくなる。
作家の文を真似て、なにかの妄想みたいなことを書いていたり、青臭い音楽論とか、文学観とかを書いていたりして、まともに正視できない恥ずかしさ。
加えて、比較的まともで、しかもしっかりとした文章を書いている女子なんかもいたりしたので、当時「このバカ何書いてんだ」と思われていたんだろうな、と思うと、恥ずかしさに拍車がかかる。
さらに、歌集。
クラスのイベントなんかで歌ったりするために、当時の流行歌の歌詞なんかをゲラ刷りにしたもので、今だったらこんなのでもカスラックに訴えられるんじゃねーだろーか、というシロモノ。
載ってる当時の流行歌自体は、いくつか懐かしいものとかもあったんだが、そのところどころに、イラストなんかを有志で描いていたりしたのだが・・・。
ちょうど親や学校に内緒で雑誌に投稿してプロデヴューする直前頃の絵があったりして、これまた悶絶もの。
雑誌に掲載した方でさえ、もう二度と見たくない、という下手さ加減だったのだけど(数年で漫画家をやめちゃったのも、主原因ではないものの、原因の一つ)今見るとそれに輪をかけた恥ずかしさ。
なんでこんなのを大事にとっていたのだろうか、と、なさけなくなるが、こういった恥ずかしい時代もあったのだ、ということを肝に命じておく神意なのかもしれない、と思い直しておこう。
これが高校時代になると、グッと少なくなるのは、外との戦い、マルキシズム系文学者との不毛な戦いを経験することになり、どうしようもない絶望感に充されていったからだろう、そのあたりの記憶はぼんやりと残っている。
正直言って、高校時代は文学部に行きたかったのだ。
しかし当時の大学の文学部、とりわけ独文、哲学といったところには、こういう赤いのがうじゃうじゃいる、というのがわかってしまったので、回避してしまい、やむなく「喰うために」化学方面に進むことになった。
後年、赤一色の大学ばかりではない、と知って、20代も半ばになってとある哲学科の門を叩くことになったのも、この十代の頃のあきらめきれぬ想いが身のうちにあったからだ。
この辺は今に繋がっているので、苦いながらも自覚もけっこうあったのだけど、中学時代の、善意に解釈すれば天真爛漫だった頃、客観的に見ればどうしようもなく痛い、今で言う「厨弐病」炸裂時代の、しかも全然洗練されてなくて、幼稚でダメダメな思考の残滓を見てしまうと、もう永遠に隠れていたくなる感覚になってしまう。
十代には戻りたくない。