火星の月の下で

日記がわり。

世界映画俳優全史女優編(教養文庫)

『世界映画俳優全史女優編(教養文庫)』を引っ張り出してきて、何十年ぶりかの再読。
昔はこれがけっこうな「映画事典」の役割をなしていて、作品の方を扱った「戦前編」「戦後編」「男優編」なんかとともに、映画史の知識の補充に役立った。
ただ、あまりにも米仏偏重で、独、伊、露、北欧の映画を集中的に見るようになってからは、あまり読むこともなくなってしまっていた。
今回手に取ったのは、たまたま書棚に残っていたから。

ただまぁ、フランス映画はともかく、米国映画、それもトーキー以降の作品については、まとまった知識というか、一本筋の通った作品史が頭の中になかったこともあって、いろいろ楽しかった。
「この作品の方が先なのか」とか「この人、この作品にも出てたのか」とか。

ただ、初版だった昭和52年(1977年)当時、気づかなかった、あるいは気にも留めてなかった点がいろいろ目について、その辺は発見と言えるかな。
たとえば、執拗に出てくる、女優のセックスアピールと、結婚遍歴。
これ、今、こういう表現をして出していたら、フェミからの突き上げで炎上してしまいそうであるな。

一例として、サイボーグ003の名前の元ネタとして知られている「フランソワーズ・アルヌール」の項。
「彼女が強い印象を刻み付けたのは、デビューして二年後の1952年、まるまるとした林檎のようなオッパイを平気で丸出しにして中年男を誘惑しようとする『禁断の木の実』の女給仕の役が最初だったから」
この後、他にも胸を露出させた女優は当時もいたけど、彼女が初々しく恥じらいの魅力でまさっていたとか、この胸の魅力を最後まで追いかけているのである。
それがフランソワーズ・アルヌールだけでなく、他の女優についてもその魅力を語る際、肢体の魅力、ベッドシーンとかに言及したりと、その筋の描写がいたるところにあるのだ。
まぁ、時代だろうねぇ。

私が独、伊、北欧、露の映画に引き付けられていったのは、俳優の魅力よりは、世界観の異様さ、幻想映画としての秀逸さの方だったので、こういう視点が(少なくとも当時は)欠落していたのだった。
そういえば、米国の幻想映画というのも、世界観や人間の内面に肉薄するというよりは、怪物なり、その怪物に立ち向かう人間なり、といった、キャラクター表現、演出の方に力点が置かれているように感じる。
この辺、幻想文学に怪奇や恐怖の要素はそれほどいらない(不要という意味ではないが)というのとよく似てる。

人物に注目する場合、やはり異性の性的な姿態に注目がいくのは仕方ないことかもしれませんな。
なお、この本自体は文庫版なのに資料的要素が豊富で、かなり重要な書籍である、というのは、書いておきたい。