火星の月の下で

日記がわり。

◎キャラ造形に乗っかりたいだけなんだろうな

昨日の『実写版ガッチャマン』・・・見てないしおそらくレンタルに出てきてもたぶん見ることはないと思うので、これに限らず原作の筋や世界設定まで変えている、いじくってしまっている実写化(+一部の原作つきアニメ化)っていうもの全般について思いつくことを少し。
キャラだけ拝借して筋やら設定やらを自分の好きなように変えてしまうクリエイターっていうのは、結局のところキャラ造形の難しさを理解していないか、忘れてしまっているんだろうな。
文芸作品や芸術作品はいざ知らず、娯楽作品においてキャラ造形はほとんど命と言っても良く、これがうまくできてると少々の筋や設定の瑕疵なんかはカバーできる。
ところがそれを受け取る側ではなく、構造を観察している側から見ると、筋や設定の方に創意工夫を見ようとする。畢竟、一番の根幹であるキャラ造形を軽んじる。
あるいは「軽んじる」という意識もなく、単なる素材に見てしまう。
あれを使って、俺なら、私なら、もっとうまくやれる、できる、という錯覚。
しかしそうじゃないんだな、実際は。
設定や筋は創意工夫だけでできているわけでなく、多少の欠点はあろうとも、それはキャラ造形の延長に出てきたもの。
むろん、キャラ作りも素晴らしく、かつ、筋や設定、語る技術も優れている作品は数多くあるし、完成品として見た場合、決してキャラの魅力ではなく、筋なり設定なり世界観が優れているので引きつけられる、と感じるものもある。
しかしそれは創作のプロセスを知らない人間の発想。
実際にペンをとってデザインし、お話の中でそれを動かし、作品を創っていく者にとっては、キャラは素材であって素材でなく、世界であって世界でない、という独特のものになっていく。
もう商業誌に描くのをやめて30年以上経つけど、その感覚は今でも十分に指先に残っている。
キャラ造形の深さ、すばらしさ、意味、そういったものを認識できない、あるいは昔はできていたのかもしれないが今はもうできなくなっている(後者の例はそう多くないけど)連中が制作の上の方にいるのではなかろうか。監督、脚本、文芸担当、等々。
むろん中には重々わかっていても、もっと大きなスポンサーなり製作(制作ではない)の方からの指示、業務命令でやむなくやってしまいました、というのもいないこともないだろうけど、たいていはそうじゃなくて、キャラ作りの苦労をわかってないから「あ、これとこれを使って、こんな話にして」という感覚なんじゃないかな。
キャラ造形の苦労をわかってないから、簡単にキャラ造形に乗っかかる。
そして適当にいじって、消費しておしまい。
原作の筋や世界観を理解し、尊重し、テーマをしっかりと考えてほしい、とは思うけれど、それ以前にキャラ造形の苦労をクリエイターとしてしっかりと認識してほしい、というのが先に来る。
デザインだけ似せておしまい、じゃないのですよ、もっとも先の『ガッチャマン』はデザインさえも似せていない(ポスターを見た限りだけど)のでそのレベルにさえ達してないのではなかろうか、とも思ってしまうが・・・。
残りの人生を考えると、実写化なんてもう一生見ることもなさそうだけど、現時点の気持ちとして記録しておく。
一応日記だしね、ここ。