火星の月の下で

日記がわり。

○昭和30年代

「生きていくの大変すぎ!」と驚愕する昭和30年代の日常まとめ2
まとめ1もあったけど、そっちは交通関係だったので、比較的記憶に残っているこの「まとめ2」から。
三丁目の夕日』にしろこの記事の引用元の動画にせよ、「そういやあったな」という感覚と同時に、どっちも渾然一体となってあった、というのが正直な気持ち。
あたりまえの話だけど、そんな極端なことばかりがあったのではなかったのだよ。
記憶として耳に残っているのが、当時よく聞いた「戦後」ということば。
「戦後は終わった」というフレーズは別の意味で使われているときもあるけど、当時の庶民感覚だと、
1.ようやく戦争が終わって、
2.ようやくあの混乱も収まって
みたいな意識で使われていたような印象だった。
昭和30年代、こどもだった私の周囲にいたおとなたち、親や教師達以外の人だとだいたい大正から昭和ヒトケタ生まれの人達、彼らが「戦後」ということばを出してくるとき、戦争中(正確には空襲を受けた終戦直前)と終戦直後の混乱時代がひとつながりで現われていた。
いろいろあったけど、ようやく落ち着いてきた、良い時代になっていきそうだ、という感覚。
なるほど列車は中進国の都市部のようなありさまだし、交通マナーは(今から見れば)ひどいし、やーさんは至るところにいたし、押し売りや客引きなんかこどもの目に映るところにさえいた。
なによりテレビドラマ(ホームドラマ)なんかの題材によく出てきた。
そんな状況であっても、暴動が起きて普通の庶民が巻き込まれたり、空襲で家から焼け出されたり、食べ物がなかったり、仕事も金もなかったり、そんな状況は脱しつつあったのだ。
余談だけど、われわれこどもが夜の町に近付かない、近付きたくない、と思わせる最大の要因が、親や教師の押しつけがましい命令や説教よりも、客引きや、やーさんの存在だった。当時の学生の不良ってのはその中に飛び込んでいっているようなところがあり、それゆえアウトローのかっこ良さみたいなものが語られたりもしたし、私のような臆病者には恐怖としても映ったりしたのだった。今のちょっと粋がっているだけの不良とはかなり違ってた。
戦中戦後の苦しみから抜け出せつつあったあの時代、悲惨なところや今から見ると無法地帯のようなところもあったけど、それでもいきなり爆弾が降ってきて殺されたり住んでいた家を焼かれたり、喰うものがなくて餓死したり、あるいは周囲にそういった餓死者がいたり、というような状況からようやく抜け出せつつある、という安堵感や希望、そういったものが見え始めた時代だったのだ。
『三丁目の夕陽』は全部見たわけではないので違う部分もあるかもしれないけど、こういった「希望の曙光」が見え始めた感覚をすくいとっているんじゃないだろうか。
街頭テレビの存在は知っていてもそれを庶民がどういう目で見ていたか、新幹線や東京五輪のときに庶民はどういう目でそれを見ていたのか、そのあたりにこの一見すると相反するような2つが混ざり合っていた答えの一つが眠っているように思う。