火星の月の下で

日記がわり。

◇食事の準備と女の子らしさ

主婦の「さ・し・す・せ・そ」のうち、す・炊事。
もう電気炊飯器が一般に普及して半世紀くらい経つし、それが生活必需品になり、さらにコンビニの普及で今またそれほどの必需品でなくなりつつある現在。
かつては炊事というのもかなりの大仕事だった。
生まれた時から電気炊飯器があったたぶん最初の世代なのだが、それでも田舎にいくとまだまだ「炊き出し」というのがけっこうな仕事だった、というのがうっすらと記憶がある。
今では市町村合併で「市」になってしまったが、母方の故郷・郡部へ行ったときには、そういう光景がまだ少し残っていた。
大家族制で、炊飯器が登場する直前の頃。
大釜で米を炊き出すのだが「はじめちょろちょろなかぱっぱ」という言葉が真実味を持って感じられる光景だった。
と言っても少人数ではなかったので、小釜でパタパタやってる感じではまったくなかったのだが。
保温機なんてないので、食事のたびごとの炊き出し。
家族だけでなく使用人の分も一緒にやってたので、それこそ女性が数人がかりでそれにあたる。
朝、昼、夜、とそれが繰り返されるわけで、当然炊き出し以外にも各種食事の準備はある。
筋肉を使う重労働ではなく、時間をとられる重労働。
子供心にそういうのを見ていたので、主婦業が楽だ、という認識はまったくなかった。
男が外で働き、女が家で働く・・・それはどちらが楽というのではなく、どちらも同じ程度にはたいへんなことだ、と思ったものだった。
家電の登場、とりわけその先頭に立っていたナショナルが女性を解放した、というのは後になって聞かされた言葉だが、あの光景を見ていたので、それはかなり納得できた。もっとも、女性は解放されたけど男性は解放されてないけども。
女性が飯を作る、というのはこの頃の記憶から各種の物語に残っていく。映画、小説、漫画等。
ひるがえって現在、コンビニはあるし、電気炊飯器も常識的に存在する。
飯は誰でも短時間に用意できるし、外食の庶民化でそもそも作る必要さえうすれている。
そんな中にあって、若者向け物語作品においても、まだときどき「女の子の作ってくれる弁当」に幻想が乗っかっていることが多々ある。
もっともあれは、妻、主婦としての「女性像」というより、母親としての「女性像」と読み替えることもできるので、必ずしも近代伝承の残滓でもないだろう。
母親像というのは、自分の母親像と同時に自分の子供の母親像、という捉え方もできるだろうし。
それをもって男が保守的だと決めつけるのもどうかとは思うが、もう一つ別の考えもあって、食事を作る巧拙、センスは女性特有のものではない、ということである。
世界の料理人に圧倒的に男性が多い、というのは、もちろん「職業として」男性にしか開放されていなかった、という時代や地域もあるので、必ずしもそれをもって「本当は男性の方が適している」とまでは断言できないだろうけど、味覚の鋭敏さに関しては男性の方が優っていることが多い、というのは、わりと普通に体感できるようになっている。もちろん「比較的」なので、個々の例としては該当しないこともよく見るが。
そんなことを考えていたので、女が弁当を作ってくる、と言っても「こいつ大丈夫なのか?」*1・・・という意識が立ってしまうので、漫画やアニメなんかでときどきある「女の子のお弁当」には全然妄想を抱けなかったりする。
これは文化受容力としては少し残念なことかも知れない、と思う昨今だったり。

*1:こう思う理由は、「女の子が」作るということ以上に、生活文化の違う「アカの他人が」作るから、ということからなのだが。