火星の月の下で

日記がわり。

○もと阪急ブレーブスのダリル・スペンサー氏、死去

「元プロ野球阪急スペンサー氏死去 強打の内野手として活躍」
http://www.daily.co.jp/baseball/2017/01/03/0009799979.shtml

米大リーグのジャイアンツなどで活躍。1964年からは阪急でプレーした。
「野球博士」の異名をとり、豪打と頭脳プレーで当時、日本シリーズ9連覇を果たした巨人が最もマークした選手といわれる。
65年にはサイクル安打を記録し、三冠王に輝いた南海(現ソフトバンク)の野村克也捕手とは最後まで本塁打王を争った。
阪急では通算7年間で731試合に出場して615安打、打率2割7分5厘、152本塁打、391打点。

88歳だったそうだ。
野村と激しいタイトル争いをした1965年、勢いはあきらかにスペンサーの方が上で、あの事故さえなければおそらく野村の三冠王はなかったかもしれない、それどころかスペンサーが三冠王になっていたかもしれない、とはよく言われたものだった。
事故というのは、スクーターの接触事故、つまり交通事故の一種。
しかも相手の一般人が阪急ファンだった、というおまけつぎだったため、このニュウスはけっこう覚えていたりする。
後年、スパイクの裏を向けてスライディングする闘争心あふれるスタイルの方が注目されていたけど、西宮球場で応援していた身としては、なんといってもあの豪快なホームランが魅力的だった。
アニメファン的には『巨人の星』で飛雄馬の大リーグボール1号と日本シリーズで対戦したとき、花形が生み出した危険な打法を阪急選手の誰がマスターしてくるのか、というネタがあって、そのときそれを計画していたのがスペンサーでした、といったあたりが思い出される。ま、結局討ち取られるんだけど。(^_^;
阪急が初優勝した1967年、原動力は要所要所で勝ち星を上げたMVP足立だったけど、打の中心にいたのはまぎれもなくスペンサー。
この時既に後の長距離砲として阪急の主軸を打つことになる長池も入団していたが、あくまで中心はスペンサーだったし、長池入団以前は事実上唯一の長距離砲だったのだ。
1960年代の阪急の思い出はつきない。
多くの野球ファンに厳しさと激しさ、豪快さと繊細さを教えてくれたナイスガイだった。
合掌。