火星の月の下で

日記がわり。

○プロ野球回顧(一)レオ・カイリー

春の頭痛が真っ盛り、ということで、日々の日記も体調のことばっかりになりそうなので、子供の頃に熱中した昔のプロ野球、特に投手の記録とかについて、つらつら書いていこうと思う。
第一回は、昭和28年、毎日オリオンズのレオ・カイリー投手。
レオ・カイリー、1929年生まれ、1984年没。
1951年、名門ボストン・レッドソックスでメジャー・デヴューして7勝7敗。
1953年(昭和28年)毎日オリオンズの投手として、一年だけ活躍。成績は6勝0敗。
これだけだと、一年だけ日本のプロ野球に在籍していた投手、というだけなんだが、実はものすごく重い意味を持つ投手だった。
まず、カイリー投手のことに入る前に、当時の状況の整理。
ただし、球団名は現行で通用しているものはそれに統一している。
タイガースなんか時代によって新聞表記が大阪だったり、タ軍だったり、阪神だったりするので、阪神で統一。
昭和25年(1950年)に始まったセントラル・パシフィック両リーグの分裂により、新たな局面にさしかかった日本プロ野球
しかし一気に球団が増えたことにより、選手不足が深刻になり、とりわけ投手はどの球団も不足していた。
分裂一年目、1950年、昭和25年。セントラルを制したのが松竹ロビンス、パシフィックを制したのが、2リーグ分裂の原因となった毎日オリオンズ
日本シリーズは毎日が4-2で優勝。
二年目、1951年、昭和26年。セントラルが巨人、パシフィックが南海で、日本シリーズでは巨人が4-1で優勝。
一般にこの年から巨人軍の第二期黄金時代と言われている。
三年目、1952年、昭和27年。セントラルが巨人、パシフィックが南海で、日本シリーズは巨人が4-2で優勝。
翌1953年も巨人、南海の3年連続の顔合わせとなり、シリーズは巨人が3連覇。
五年目、1954年、昭和29年。ようやく巨人、南海の連覇が止まり、セントラルが中日ドラゴンズ、パシフィックが西鉄ライオンズで、どちらもともに初優勝。
日本シリーズでは、魔球フォークの杉下vs妖球ハラキリシュートの河村が対決する、シリーズ史上に残る好投手対決で、中日が4-3で優勝。
だいたいこういった時代で、この5年間、1リーグ時代一番最初に黄金時代を築いていた阪神が分裂時に毎日に選手を引き抜かれて下位低迷、変わって巨人、中日が争うセントラル。
一方パシフィックは、最初は強打毎日と投手力の南海、という図式から、三原監督の西鉄が台頭しだしてくる、という時代。
さて、1953年、昭和28年に戻る。
分裂一年目に日本一になった毎日だったが、投手のコマ不足からとんでもないプランを出してくる。
当時まだ日本に進駐していたGHQの中に、現役大リーガーがいる、という情報を得て、休日だけでいいから、投げてくれないか、ともちかけたのだ。
それがこのレオ・カイリー。
このカイリーという投手、大リーグデヴューをはたした翌年、つまりこの一年前、1952年に兵役につき、日本(横須賀)に駐留していたのだ。
軍務があるので、当然のことながら副業、アルバイトとして、休日だけの登板、という契約を結び、チームに参加する。
はたして8月、深刻な投手のコマ不足に泣くオリオンズは、このカイリーを8月から登板させる。
その結果が上に書いた6勝0敗だった。
6試合のうち先発が5試合、うち完封が1。
打席に立っても8月だけの短期間だったとはいえ5割以上を打つ。
すさまじい威力で、夏過ぎてからの途中参加の選手がこれくらいの活躍をした、というのは、後、昭和36年(1961年)に関西大学を中退して巨人に入団したあの村瀬投手などもいるが、カイリーは日本プロ野球に最初に登場した現役大リーガーだったこと、しかも本業としてではく、副業契約で出てこの成績、ということで、いかに当時まだ、日本と大リーガーとの間に差があったのか、という証拠にもなっている。
進駐軍の選手がバイトで日本のプロ野球に出たら勝ちまくって打ちまくって、という伝説になった投手だったのだ。
これを見ると、当時の大投手がときどき「おれだって大リーグでやれた」とか「時速180キロは出ていた」なんて寝言を言ってたりするが、彼我の実力の差が縮まるには、まだかなりの時が必要だったのだな、と思い知られる。
まぁ、大リーグもその後球団数を増やして全体のレベルが少しさがった、というのもあったけど。
なお、カイリーは同年をもって除隊したため、この年限りで帰国し、再び大リーガーとしての数年を送ったそうだ。