火星の月の下で

日記がわり。

発表予定のない論文を書いてる

老齢に入ると、何かを発信するのがすごくおっくうになってくるんだが、今、発表できる舞台もないまま、論文っぽいのを書いている。
誰に見せるでもなく、純粋に自己満足の世界。
もちろん、自分の文章、内容をブラッシュアップするには、いろんな人に見せて批判を仰ぎ、細かな欠点や漏れを詰めていく方が良いんだろうけど、もうそんなことをのんびりやってる時間もなければ、それによって得られるものもそんなに多くない。
従って自己満足でいいのだ。
私の死とともに、それらは「最初から存在しなかった」ごとく、消えていくだろう。
死んだ後の評価や研究など、もう自分にはわからないのだから、それでかまわない。

こう書くと、なんか私小説の分析とかやってるみたいだが、実は大好きな作家について、いくつかまとめているところ。
邦訳がほとんど出ていないので、原語まじり、日本語まじり、である。
いくつか自分のできる範囲で校正もするのだが、見ていると6割くらいはドイツ語になってる。

20年くらい前までなら訳出もしてたし、またしたいという願望もときどき沸くのだけど、翻訳となるとはるかに細かな作業が必要となる。
老齢の身にはこれがつらい。
抄訳なら、という気もあり、そういうのは平行してポツポツやっているのだけど、これもたぶん発表することもなく消えていくだろう。

こういう作業の効果として、時間が経って読み直すと、まるで自分が書いたとは思えないほどの別物になってることが多く、またそれが楽しい。
そしてそれを読み、また修正していくことで、少し頭が回っていく感覚もある。
「私」をちゃんと消して、できるだけ客観的な記述にすることさえ注意しておけば、老齢になってからの論文制作は楽しいし、充実感もある。
ただ、疲れたり、飽きたりすると、時間的ブランクがあいてしまうのが難点ではあるが、それも読み直しによって、またある時突然にやろう、という気になってくる。
このとき、発表しようとか、誰かに褒められたいとか、そういうスケベ心を持たないことが肝要である。
ネットで対象としている固有名詞を書かない、ということも重要かな。
いつまでもこうやって、自分の頭で考え、まとめられるようでありたいものだ。