火星の月の下で

日記がわり。

▽天才なんていわれているうちは・・・

「天才コンプレックス」という題名のコラムがあったので、その「単語」について、少しばかり反応してみる。
そのコラムへの意見でもなければ、内容について、ではないので、ここではリンクをはらない。
故・大山十五世・永世名人が言ったと伝えられる「神童とか天才とか言われているうちはまだまだです」ということば。
どういう文脈だったかちょっと詳細は憶えてないが、若い頃この言葉を聞いてけっこう感動したことがあって、そういった誇大な表現については、あまり信用しなくなってしまった。
実際に、大山名人は「神武以来の天才」といわれた若き加藤一二三を一蹴したし、その他、あまた挑み来る若き天才、神童少年たちを蹴散らしていった。
もちろん最後には当時「若き太陽」といわれた中原の前に屈することになったけど、それまでの過程が半端じゃなくすごい。
かといって、大山名人の若い頃、というのは、木村、塚田、升田、といったそうそうたる顔ぶれがあって、天下を取るまでに時間がかかった。それゆえ大山名人を神童とか天才とか言う人はあまりいなかったと思う。
実際には天才以上、神童以上の超人だったわけで、「名人以上」と揮毫した升田に感覚が近いものがある。まぁ、升田のように自分で名乗ったわけではないが。
とまれ、天才とか神童とかっていう言葉には、そういう表現を使っていることに対して多少の憐憫を感じる程度になってしまったのだ。
もっとも、唐詩の世界なんかで言う「天才」「人才」「鬼才」なんていうことばには、敬意を表するけどね。鬼才・李賀、なんていうのは、若い頃けっこう好きだった。
「鬼才」なんて単語は、李賀以外には使ってほしくない、と思えるくらいだし、そもそも「鬼才」っていうのは、「鬼(亡霊、幽霊、幻想)」を見ることのできる才覚ということだから、そういった創作をしていない人につけてほしくないんだよなぁ。