火星の月の下で

日記がわり。

○ロマン派の交響曲

書籍なので、音楽タグはつけずに、趣味の○印で。
講談社新書の『ロマン派の交響曲~『未完成』から『悲愴』まで』を読んだのだが、感覚がかなり違うので、しばし唖然。
著者の片方が在日の指揮者であること、というのもあるのかもしれんが、文のところどころに見え隠れするキムチ臭さは相当鼻についた。
もちろんちょっと感覚が違う、と思ったのはこの在日云々のところではなく、交響曲が音楽形態の完成形、最終形態、みたいな取り扱いをしているところで、室内楽は劣等、交響詩が主になりかけた時代は危険な時代、音楽の民族性は妄言、みたいなニュアンスがちりばめられていることで、ちょっとこれはどうなんかなぁ、という気が強くした。
音楽の完成形がどこにあるか、なんてのは鑑賞者の好みによるところが大きいので、人それぞれだろう。
わたしなんかは、音楽の最も進化完成した極致は、弦楽四重奏だと思っているので、交響曲ばっかり書いている、もしくはそれが代表作になってしまっている作曲家なんかはダメ音楽家、みたいな感覚なんだが、もちろんこれはワタクシの主観であって、別に他人に押し付けようとか、理解してもらおうとは思っていない。ただわたしの好みとして、こういう基本線の上で鑑賞している、ということにすぎない。
もちろん管弦楽も好きだし、交響曲の魅力を否定するものではないが、一番は、と聞かれると、トリオ〜六重奏くらいまでの室内楽が一番落ち着くし、好きだ、というところなのだ。
ところがこの本では、たとえばブラームスがなかなか交響曲を書かない時期に、ヴァーグナー派のことばとして「室内楽ばっかり作曲しているダメな音楽家」みたいな表現が「中傷」として、半ば規定の事実、客観的認識であるかのように書かれている。
その他、シューベルトメンデルスゾーンについても、そんな認識でいいのか?・・・と思える記事がいくつか散見されたのだが、あんまり読み返す気も起こらないので、ちょっとひどいな、という印象だった、というにとどめておこう。
交響曲は好きだけど、管弦楽の方が室内楽より優位だ、と思ってる、信じている書籍は、かなりはっきりと不快感がでてくる、ということを確認してしまった。