火星の月の下で

日記がわり。

ドヴォルザークの思い出

中学生の頃・・・だから40年以上昔のことだ。
クラシック音楽好きの友人がレコードを持ち寄ってやってきて、うちにあるレコードと聞き比べをしていたときのこと。
その頃はまだ今みたいに室内楽党にずっぽりつかってるわけではなかったので、管弦楽とか大編成の歌劇なんかも聞いていた。
友人はドヴォルザークの新世界交響曲のレコードを新たに購入するつもりで、うちで所有していたものと聞き比べをしていた時のことである。
残念ながらそのとき誰の指揮でどのオケだったのかははっきりとは覚えていないのだが(カラヤンでなかったことははっきり覚えているんだが)、友人が第4楽章を聞き終わって、ポツリと言った。
「なんでここで終わらなかったんだろうな」
第4楽章の最後、ホ短調の和音が高らかに鳴り響いて、ここで劇的に終わるのか、と思えたとき、唐突に音楽は引き延ばされ、いかにも強引に長調終始するがために、とでも言うかのごとき曲想になり、強引にホ長調でしめくくられる。
友人はここのことを言っていた。
私もそれ以前からこの曲の終わり方にちょっと違和感を持っていたけど、「なんで?」・・・とまでは思わなかった。
長調終始は古典派から浪漫派にかけての変な風習だと思っていたし、そういった実例は枚挙にいとまがなかったので「ああ、またか」といった感覚だった。
ドヴォルザーク交響曲第9番ホ短調は名曲であるだけでなく、ものすごくよく知られた人気作品でもある。
第2楽章のメロディは「遠き山に日は落ちて」の歌詞をつけられて、多くの日本人になじみがあるだろうし、第4楽章の金管の響きや第1楽章のなじみやすくうっとりする旋律、和声は、天性のメロディメーカーでもあったドヴォルザーク晩年の集大成としてふさわしい傑作であることを示している。
そういった世評に対して思ったことを素直に言えるのは大切なことだ、みたいなことを言いたいのではない。
自分が感じていた違和感をなぜもっと深く鋭敏に考えなかったのだろうか、ということだ。
今それを思い出すのは、年降りて思考に鋭さがなくなってきている現在、ドヴォルザークの意図を考え、構築しようという意志が希薄になっているからかもしれない。
あの日もちょうど梅雨時の夕方だった。
まだクーラーのなかった頃、扇風機をつけると雑音が混ざるので、高い湿度の中、汗を流しながら耳を傾けていた。
それを聞いたあと、どんな会話をしたのだろうか、自分はどう思い、どう考えたのか。
楽譜を片手にいろんなことを話したはずなのに、今ではもう思い出せない。
その友人は一浪して阪大の工学部に行き、その後大手化学メーカーに就職した。
結婚式に呼ばれていったのが今のところ最後だったと思う。彼はまだドヴォルザークを聞いているだろうか。