火星の月の下で

日記がわり。

▽デートカー

憂楽帳:デートカー

若者が自動車に興味を持たなくなったという。新車販売は90年をピークに下落基調が続く。オジサン記者の私が若者だった約20年前は「デートカー」というカテゴリーが人気だった。日産シルビア、ホンダプレリュード。トヨタカローラレビンは車両型式から「ハチロク」と呼ばれた。カッコよい愛車に大切な彼女を乗せるため、仕事だって頑張った。私は若者が草食化し、車に関心を持たなくなったことも、少子化の一因だと思っている。

最近定期的に見るようになった「若者の車離れ」なんだが、この手の記事を読むときに、いつもひっかかる点がある。
昔は皆高級車にあこがれた、という内容なんだが、どうも喉の奥になにひっかかったような、微妙な違和感を感じていたのだ。
確かに今と、昔、というのはだいたい20〜40年くらい前まで、程度の範囲だけど、たしかに高級車に対する憧れは今よりも高かったと思う。
スーパーカーも何度かブームになったし、とりわけ田舎では生活必需品に近かったこともあって、車を持つことが一人前のおとな、みたいな風潮も、今よりはあったと思う。
しかし一方で、車というのは道具である、という層も少なからずいて、特に都市部なんかでは、高級市民は車の免許なんか持たない、車は運転手ごと雇うもんだ、という風潮もあったのである。
資産家や名家の子弟の中には、免許を持つことが中産階級化、成り上がりみたいで恥ずかしい、と思っていた層だってあったのだ。
もちろんそういう層は少数派ではあったけど、50年代から70年代くらいの若者向け映画に出てきた、車を乗り回す連中のどこかアウトローな雰囲気というのも、そういう高級市民、上流階級への不満の捌け口としての心理的要素もあったのである。
今日の車離れを描写するときに、昔はカッコイイおとなの必須アイテム、みたいに語られることが多いことに対して感じる違和感、というのも、どうもそのあたりの記憶にあったりするんだなぁ・・・。