火星の月の下で

日記がわり。

感情移入と異化効果

かつてブレヒトは自身の演劇を叙事的演劇とし、劇的演劇との違いをこう説明した。

「劇的」演劇は
舞台が事件の継起を具体化し、
観客を演技の中に巻き込み、彼のエネルギー、行為への意志を抱かせ、
いろいろな感情を抱かせ、
経験を伝え、
観客は行為の「中」に連れ込まれ、
示唆を受け、
感動が心にとめられ、
人間は既知の量として示され、
人間は変わることができないものだ。

「叙事的」演劇は
舞台が事件の継起を語り、
観客を傍観者にするが、彼のエネルギーを覚醒し、
決意を促し、
部分的知識を伝え、
観客は行為の「前」に置かれ、
論拠を示され、
感情は洞察力となり、
人間は研究の対象とされ、
人間は変わることができて、今も変わり続けている。

感情の同化と異化については、詳説すると長くなるので省くけど、二十世紀物語芸術について、ある大きな転換点を示唆したのは間違いないだろう。
以前、世界文学全集を標榜しながら、世界も現代も全然見えていない、仏文学者の蒙昧さを指摘したけど、21世紀の現代、既にこれを消化し、乗り越えなければいけないところに来ている、というのが、文学最前線でのできごとである。
ワタクシ自身はブレヒトの創造性が枯渇した作風は嫌いだし、演劇を政治バンフレットに堕してしまった彼の罪は重い、と感じているが、理論面でのこの切り込み、観点は非常に重要だし、それが散文であれ韻文であれ、語られる物語にどう切り込み、どう咀嚼し、あるいは逆にどう提示するのか、その他いろいろな物語表現技法と、鑑賞法に一石を投じたこと、そしてその波紋が今もまだ続いている、というのに目を背けてはいけないと思っている。
翻って日本、その物語と評論に対して、果たしてこの「現代」は認識されているのか。
残念ながら日本風土は、まだこの境地に到達していないと思われる。それはいまだに、作中人物への「共感」「感情移入」が物語作品評価のポイントとして語られることが多い、という点からも伺えるし、作者自身も物語に酔っている、という現象もしばしば目撃する。
各種文学賞のあり方や、言語アカデミーの不在状態といった面もあるのもしれないが、あまりにも「評論文化」が未成熟、かつ稚拙である、と感じることもしばしば。
これを風土だと言ってしまうのは簡単だが、知的構築を怠ってきた結果なので、はたしてこれを風土のせいにしてしまって良いのかどうか、という気も少しある。