火星の月の下で

日記がわり。

魔女劇の魔少女(一)

ついったで少し書いたので、以前に書いたことといくつかダブるけど、記録しておく。

沙翁『ヘンリー六世・第一部』を魔女劇として読むのは、木を見て森を見ずの典型に陥りそうなので、関心できることではないんだけど、それでもたいそう興味のあるモティーフ。
英軍を悩ませる「乙女(ジョーン・ラ・プーセル)」が、前半は聖女と魔女の境目にいるように見えて、実は「魔少女」のような立ち居振る舞いが、たいそう魅力的だ。
仏軍に属し、タールボット卿の英軍をさんざん悩ませる「悪魔の力」を英軍からいまいましき存在、として描きつつ、実は「乙女」は仏軍、フランス人をも腹の中で、嘲笑し、見下しているのだ。
「それでこそフランス人です!」と讃えつつも、独白で「ころころ変るところがな!」ともらしたりしている。
だが後半、英軍に捕縛されてのち、その言動が、淫蕩の魔女たる側面を持ってきて、前半の悪魔的な「乙女」とは少し雰囲気が変ってくる。
「乙女」とは言わずと知れた、処女・ジャンヌ・ダルク
史実との関係、というのもよく指摘されているようだけど、当時16世紀末の利用できる資料を考えると、たとえば後年のシラー『オルレアンの処女』ほどには逸脱はしていない。
むろん、フランス人を嘲笑する場面などは、仏軍陣営内部において、タールボット卿の勇猛を忌々しく語る場面ともども、英国側の視点、英国人を観客として演ぜられた事情の上で見るべきなんだろうけど、それでもこの二重性は、興味をひかれるところ。
第五幕・第三場。ここは後半の鍵になるところで、けっこう好きな場面。「乙女」から力が失われる場面でもある。
「乙女」によって呼び出された、数名の悪魔が、力を行使するでもなく、付与するでもなく、力なく頭を垂れて、一言も発することなく、立ち去る、というもの。
これにより「乙女」の魔力が失せ、英軍に捕縛されることになるので、ここでの悪魔の所作の意味は明確なんだけど、一言も発しない、というのがすこぶる良い。
沙翁の真作か偽作か、という点でもいろいろ研究があるようで、晩年のロマンス劇や4大悲劇はもとより、その直後のいくつかの国王劇と比べても人物プロットの弱い箇所が多くて、劇全体としては散漫な印象もなくはないんだけど、タールボットと「乙女」の人物像はたいそう魅力的。
魔少女が魔女としての本領を示すこの第五幕・第三場、「乙女」はいつものように悪魔どもに「血を吸わせる」と語り、それでも悪魔が動かないので、「この肉体をも献ずる」とまで言う。そして無言のまま立ち去る悪魔。
その後の第四場・ヨーク公の陣営での、捕われた「乙女」のすさまじいまでの毒づきがあって、事実上この劇のメインプロットは終了するのだが、この第三場から第四場にかけてのプロットは実に劇的、魔的な意味で、だけど。
立ち現れる悪魔の描写なんも、それ以前のもの、あるいは18世紀末から19世紀初頭に現れる幽霊劇、運命劇と比較しても、いろいろ面白い読み方ができそうだ。舞台上に現れる悪魔が、どの程度まで語り、プロットに介入していいのか、とか。

ついったに書いた内容なので、かなり散漫な書き方だけど、アトで探すのもめんどいので、こっちにも転載しておく。
魔女劇に見る魔少女、という観点については、もう少し煮詰める必要がある気がするが、いまのところはこんな感じ。