火星の月の下で

日記がわり。

○ネットとアニメ評論。

さらしるさんのところでリンクされていた記事。
「今ゼロ年代批判をやってる人たちは90年代の亡霊なんじゃないか」(匿名はてな、なんで、リンクはしたくない)を読んで思ったこと、少し。
この記事そのものは、ちょっと知らないジャンルについてのことも出てくるので具体的にどうこう思ったわけではないんだけど、たぶん、発言者も批判対象者も、お互いの基本情報を共有してないんだろうな。
アニメやゲームみたいな、享受者によって基本情報が大きく違っている、ズレているようなジャンルで評論っぽいことをするのは、不特定多数に対して公開したらまずいんじゃないか、と思えるのだ。
一応ワタクシも別のところで、アニメブログみたいなものを公開しているけど、それはまったくの感想ブログで、表現スタイルとして「評価する」みたいな言い回しをしているときもあるけど、基本的には感想で、極力、分析、評論にならないようにしている。
まぁ、一応、非公開会員制で、元アニメーター、クリエイター限定の分析サイトを細々とやってはいるから、というのもあるんだけど、やはり、基本情報が大きく違う娯楽作品を対象にした評論を、不特定多数に対して公開する、というのが危険、かつ不毛な議論になりがちだから、というのが強くある。
基本情報というと、娯楽作品だとそれこそ無数にあるが、視聴体験なんてのもその一つ。
もちろん、リアルタイムで体験していないと、ほんとのところがわからない、とは思っていない。
思ってはいないけれど、リアルタイムで体験していない人がそれを理解する、あるいはそれを基本情報として持つためには、共時的、通時的情報を整理してインプットする必要がある。
ところが学術事象とかではなく、娯楽作品とかになると、そういったことをやっている、検証している人がとたんに少なくなる。
それゆえ、そういったことをいちいち指摘するのが面倒な場合、ついつい「知らないんだったら言うな」みたいなことを言ったり考えたりしてしまいがちになる。
通時的情報、共時的情報にしても、そもそも「通時」「共時」が何を意味しているのかわからない層だっているだろうし。
その評論は誰に向かって言っているのか。
これを考えれば、娯楽作品であればあるほど、不特定多数に対して公開するのは危険(この言い方も抽象的なんだけど)だということがわかるのではないか。
卑近な例だけど、たとえば雑誌なんかでも、一応雑誌代を払っている、という低くはあるがハードルをもうけているのである。
それに対してネットは、もちろんそれも無料ではないけど、そのハードル意識は、雑誌とさえ比べてもとんでもなく低い。
ましてや娯楽作品を享受している層なんてのは、働いてない世代も相当にいるわけだ。
マチュアが不特定多数に対しての評論をするときは、この危険意識をしっかり持つ方が良いんだろうな。