火星の月の下で

日記がわり。

○墓に持っていく、とは言うが・・・

昔の漫画や雑誌なんかは大半が書庫に入ってて、出してくるのも面倒な状態になっているが、それでもお気に入りのいくつかは手の届く書棚にいれてある。
もう絶版だったり書籍自体も手垢で汚れてしまっているものも多いが、ときどき懐かしさから取り出してきて読みふけってしまう。
そういった昔の本(漫画に限らないが)を読むとき、同時にそれを初めて読んだときのこととかも重ねて思い出す。
そして思うのだ、この思い出は誰に伝えることもなく、私の人生とともに墓穴に持っていくのだろう、と。
若い頃はそれなりに野心もあって、何か自分の名を残してやろう、自分が死んだ後も名が残るような傑作を書いてやろう、なんてことも思ったりもした。
今思えば赤面の至りだが、そんな野心を持つのも若さゆえだろう。
だが今はもう自分のための読書であり、自分のための創作である。
カフカではないが、死後は自分が書いたものは全て消去してほしい、とさえ思うようになった。死んでしまえば当人にとっては全て終わりなのだ。
名前なんか残っても何の意味もない。
死の間際に、そういった可能性があると少し苦痛が楽になる、という程度にすぎない。
結局死んでしまえば、その名がどうなっているか、なんてことは認識できないのだから。
今、何かを読み、何かを書く、ということは、それゆえに若い頃よりも純粋に向き合えるような気持ちになっている。
もちろん創意とかひらめきとかは歳相応に衰えてきているが、しかし気持ちが純化していくようなこの感覚は、若い頃にはそれほど強く得られなかったものだ。
読書も同様である。
もう将来のために、なんていう読み方は必要ない。
純粋に自分が読みたいもの、知りたいものだけを読めば良い。
これを読んでおいた方がよい、ということから解放されると、こんなにも楽しくなるのか、という気持ちがふくらんでくる。
ただ残念なことに、それが日本語でない場合もけっこうあるため、言語によってはうんうん辞書と首ったけにならないといけないこともある、ということくらいだろう。それでもそれなりには楽しいのだけど。
秋の夜は読書には最適だ。
読み通せなくて寝てしまってもかまわないし、いついつまでに読まなくてはいけない、なんてこともない。
極端な話、読み終える必要すらない。
面白くなければうっちゃってしまってもかまわないのだ。
こんなあたり前のことにようやく気づく、初老の秋であった。