火星の月の下で

日記がわり。

◎エヴァンゲリオンの英語字幕に酷いモノがあるらしい

【衝撃画像】 エヴァンゲリオンの、英語字幕が酷すぎる・・・ワロタ。
やっぱり日本語以外で鑑賞している連中の感想の類は信用できんな、とあらためて思った次第。
もちろん公式のものじゃなくて、ファンサブの一つなんだろうけど、90年代はこういうのがいろいろ普通にあったからな。
ただまぁ21世紀も10年以上経って見てみると、なかなか乙なものがあるわい、と感じなくもなかったり。
これはたまたまアニメで、日本語が訳されたからだと思うけど、劇関係(戯曲、映画、、TVドラマ、大衆芝居等)で邦訳されたものを見ている、というのはいろいろ問題があって、しかもそれに気づいていない、ということが多いというのを認識した方が良いのかもしれない、とあらためて思った。
大衆娯楽の場合、我々一般人が翻訳もので知る、というのは仕方ないが、映画とかだと評論家と称する人々が訳されたもので評論してるケースがあったりしたので、そのあたりは「専門家」と勘違いしないようにしたい。
ずいぶん前になるが、オカマで双子のとある評論家がけっこう入れ込んだ映画評やら辛辣な映画評やらで人気を博していたことがあったんだが、あとで聞くとその評論家は英語がわからなかったらしい。
誤解を生むといけないので念押ししておくが、我々消費者が翻訳ものを鑑賞してあーだこーだ言うのは問題ないと思う。金払って見ているわけだし。
しかし評論家がオリジナルを見ないで評論する、というのは果たしていかがなものか、と思う。
とはいえ最近の映画評論家さん達は、少なくとも英語映画に関してはしっかりとオリジナルを見て、聞いて発言されていることが多いように感じるので、上に書いたような「英語もわからないのに英米の映画評論をやってる」なんて事例は少なくなっているんじゃないか、と希望的な判断をしているのだが。
英語以外はある程度は仕方ないと思うけど、それでもちゃんと原語のわかる人が評論すべきなんだよな、と思う。それで生計を立てているのであれば。
かつて明治維新ののち、沙翁の『ハムレット』が日本にやってきた頃、あの有名な「To be,or not to be〜」の下りを、当時の学者達がいろいろ頭を悩ませて珍妙な役をつけていた、という逸話を思い出す。
今日の教育環境、情報環境から思うと、どの訳もネタの域を出なくなってしまったけど、仮にそういったネタみたいな訳で作品が鑑賞できた、なんて思っている人はいないだろう。
今日ではそんな的外れの訳は減っているとは思うけど、映像だけでなく、セリフのひとつひとつまでしっかりと見て分析するべき評論家が、翻訳ですませてました、というのは困るよな、と思ってしまったりするわけだ。