火星の月の下で

日記がわり。

京アニ放火事件と、懸賞小説の闇

「容疑者「京アニ大賞」に執着 やはりそうか 懸賞小説の闇ってあるんだよ 僕も懸賞小説を唯一の手がかりにもの書きの世界に這い上がっただけに その闇のおぞましさは承知してるのよ」
(ps://lineblog.me/kageki_neko/archives/13233580.html)
作家・志茂田景樹氏のブログ。
ご自身の体験に近いところにあったためか、実にわかりやすく、かつ的確に拾い上げてくれている。
文章の方の懸賞小説はまだ経験がないが、漫画の新人賞とかでもこれに近いことがある。
さすがに実体験としてここまで生々しくはないけれど・・・。

新人賞の魅力、それは応募する側かららも、そして拾い上げていく側からも本来大きなメリットがあったはずなのに、長い歳月を経てそれ自体が一つの権威となり目標となっていく。
そしてその結果、いろんな妄想が生まれ、人を狂わせてていく。

ただ一つ、作家ならではの視点があって、

そういう懸賞小説の闇に毒された
人たちからの接触が途絶えたのは
直木賞受賞後である。
敷居が高いということになったのか。

ここもまた示唆に富んでいるといえるだろうか。
権威ある賞を得て別世界の人間になっていった、という感覚かもしれないが、同時にその賞を取るまでは、この種の闇にうごめく人たちは、新人賞佳作者を同格、もしくは格下と見ている、ということでもあるわけで、そのあたりに判断眼なり客観的な視点が欠落している、ということでもあるのだろう。
確かに、新人賞その他で、拾い上げる側とそれにのっかる側との間の癒着も聞くことがあるけど、全体に対しての比率でいうとそんなに多くないはずだし(なにより出版業だってビジネスなのだから)それに疎外されて上に行けない、なんて人は、苦節ン十年もやってて物理的にありえないだろう。
あとはここにも書かれているけれど、才能がないのにそれが自覚できず、永遠に応募し続けている、という悲しい連中。
才能の有無(もしくは適材適所)を判断できない人間だからこそ、こういう闇に落ちてしまうのか。
そのあたりの細かなところまではわからないけど、懸賞小説の闇として、記憶されていくのかもしれない。