火星の月の下で

日記がわり。

「核なき世界」の幻想

今、ローマ教皇が来日して被爆地である長崎、広島を訪問している。
そこで「核なき世界」と言う講演をしたそうで、この両都市の世界文化における価値をよく知っている、とあらためて感心させられた・・・こう書くと批判的になるかもしれないけど、もちろん評価してのことである。
ともすれば忘れがちな被爆地としての日本、広島、長崎、ということをおりにふれて思い出し、人類の課題として強く意識しなおすことは良いことだと考えている。

そしてそれとは別に「核なき世界」ということばに対する幻想もかなり独り歩きしているな、と思うことがときどきある。
理想としての「核なき世界」は大切なことだと思うけれど、現実面に置き換えてみると、「核なき世界」は平和な世界では、おそらくない。
それは核に変わるもっと恐ろしい大量破壊兵器が存在していることになる可能性が強いからだ。
核兵器が脅威をもって語られつつも、廃棄の方向へは決して向かわないのは、現状それが兵器としての最終形態になっているから。
先進国はもとより、北鮮のごとき最貧国が持ちたがったのも、その最終形態としての魔力にとらわれけてしまっていたからだろう。
しかし近い将来、核に変わる新たな超兵器が現実のものとなったとしたら?
想定されるものとして衛星兵器などがあろうけど、はたしてどういうモノになるかは、今の段階ではわからない。
しかし「核が不要になる」世界というのは、決して世界平和が実現した世界ではなく、核そのものが幼稚な兵器と感じられてしまうほどの新たな超兵器が生まれた世界になるのではなかろうか。

もちろん、次代の超兵器が生まれたからと言って、すぐに核兵器がなくなることはないだろう。
それは新兵器が登場しても、旧兵器にもそれなりの需要が残り、延命してくる例を我々はよく見ていたからだ。
しかし、決定要因としての核がなくなる可能性はある。
そのなくなった世界に、あまり希望がもてない、という予想も一緒についてまわるものではあるけれど。