火星の月の下で

日記がわり。

なぜ優れたクリエイターの息子、娘は魯鈍なのか

偉大な芸術家、文化人、創造者、という存在が教育についてはあまり成功していないのを見ると、そういった芸術のセンスや技量ってのは、世間が思っているほど血筋には依拠していないのかもしれない。
徒弟制度のあった近世以前ならまだしも、職業選択の自由がごくあたりまえになっている昨今、優れたクリエイターの実子だからと言って、その2世、3世も同様に優れているかというと、そうではないケースの方が目についてしまう。もちろん成功例もあることはいちいち書かないけど。
これは、優れた文化創造物というものが、本人の努力、才覚にもまして、時代精神と環境によるところが大きいのだろうな、と思ってしまう。
この場合の環境というのは、教育環境に加えてそれ以上に経済環境なのであるが。

個々の文化史に名を遺す偉人的な創造者、芸術家というものは、それを生み出すために膨大なエネルギーを投下しているため、教育にまで手が回らないのかもしれない。
ここでいう教育とはむちろん学業成績のことではなく、クリエイションという方面。
環境としては申し分ないはずなのである。
ほぼすべてのクリエイターが模倣から出発するので、その素材が高い品質で、かつ身近に大量にある方が良い。
しかし、先代がその素晴らしいクリエイションを残してきたその時代精神、背景はもはや変化しているのである。
2世、3世が速い段階でそれに気づき、自分を形作っていくときに、過去の成功体験の上に立脚している先代のセンスが、創造としてはまだ十分には機能していても、教育の場では機能しきれないことが多いのかもしれないなぁ・・・なんてぼんやり妄想してしまう昨今。

実はVOLさんとこの件についてチャットしたとき、具体的な固有名詞がバンバンとびかっていたのだが、不特定多数の目にとまりかねないブログにそれを実名で書くのは自殺行為に近いので、あいまいな表現にしておく。(笑)