火星の月の下で

日記がわり。

歴史記述と人生

個々の歴史記述、あるいはフィクションではない著作を数多く読んでいると、その時代、国家、政治家、文化人等が眼前にあるイメージをもって浮かび上がり、さながら生きているかのように頭に刻み込まれることがある。
史記述の学術性云々においては、主観的人物像から客観的史料批判へと向かっていかなければならず、あまりイメージに固執してしまうのは良くないのだが、楽しみとして歴史記述を読むときにはあまりそういう意識も働かず消化していることもある。
これは歴史記述に対する姿勢の問題なので、別に学者ではない自分にとってはどちらでもいいのだけど、ときおり、ある歴史時代が現代まで続いているような素材を読みふけっていると、なんだかその流れの外側で俯瞰的に眺めてしまっていることがある。いわゆる、神の視点というヤツ。
記述者がいる限り永劫に続いていく歴史記述だけど、さて、一個人がその流れの中にあることを自覚した時、死というものが実に奇妙な感覚になってしまう。
個人の死によって、歴史を知覚することは終わってしまう。少なくともその個人にとっては。
ところが、その記述を楽しんでいた個人とは関係なく、歴史は続いていく。
それでもいったい、個人の中に流れる現在へと続く歴史とはいかなるものであるか。
つまるところ、その時点まで描かれた記述のみになることが多いのに、そうではない感覚に襲われてしまうのだ。

史記述が現在へと続いていくとき、そしてまた未来へと続く可能性が示唆されるとき、一度振り返って考えてみる必要があるな、と思ってしまう昨今である。