火星の月の下で

日記がわり。

阪急左腕投手の回顧

オリックスの宮城が4勝目を挙げて、勝利投手のトップに立った。
と言ってもまだ5月上旬なので、暫定も暫定なのだが、かつて左腕投手不足にあえいでいた70年代以降の阪急を思い出して、隔世の感。
プロ野球回顧」の【三】としてアップしようかと思ったけど、まとめたわけではないし、単なる回想なので、ダラダラ書く。

阪急の左腕投手と言えば、何を置いても梶本投手。
初優勝する1967年以前、パ・リーグ最古の歴史を持ちながらずっと下位に低迷していた時、350勝投手米田(右腕)とともに、ヨネカジ時代を作ったブレーブス功労者の一人である。
その梶本が250勝を残して1973年に引退してから、ブレーブスではローテーションを守れる左腕が払底していた。
もちろん左腕投手自体はいるにはいたが、梶本のように毎年コンスタントにローテーションを守れる左腕がいなかった。
梶本自身もローテーションの一角を守ったのが1969年まで。
その後4年間がんばっていたのも、この左腕不足があったから、と言われていた。
引退した翌年、1974年には、あまりに左がいないため、梶本に短期間復帰してもらうのはどうだろう、なんてプランも、ファンの間でささやかれていた。
ただこの時期は西本→上田時代で優勝を重ねていたこともあり、それほど大きな動きは見えなかった。

次に登場したのが1975年、広島からトレードでやってきた白石静生投手。
山田、足立、山口、戸田に次ぐ第5の投手としてローテーションを守るが、日本シリーズでは古巣広島との対戦では登板せず。
しかし翌年から、ブレーブス唯一の先発できる左腕投手として、引退する1981年まで先発陣の一角として奮闘。
だがこの間も、ブレーブスは自前のローテーションを守れる左腕投手を育成できなかった。

1985年に登場した星野伸之が白石の次の先発左腕。
星野は阪神に移籍する1999年まで、長きにわたってローテーションを守り、実質エースだった年も何年かあった。

星野在籍中に、阪急がオリックスになり、ここでようやく左腕日照りが収まって来る、と言ってもすぐに左腕王国になったわけではないのだが。

現在、ローテーションを守れる左腕投手として、宮城、田嶋と二人も左腕投手がいるのは、過去にあんまり記憶がない状況で、それくらい阪急と言うと左腕投手が少ない球団、というイメージだった。
厳密には阪急と今のオリックスは違うけどね。