火星の月の下で

日記がわり。

吸血鬼

昔の文庫本を整理してたら、Reclam文庫のDeutsche Balladenが出てきたので、パラパラと拾い読み。
 GoetheのDie Braut von Korinth(コリントの花嫁)があったので、今日は吸血鬼のことについていろいろヨタゴトを記録。
吸血鬼が死体である、ということを指摘したのは、邦語文献では種村季弘の『吸血鬼幻想』あたりが嚆矢だったように思うけど*1、その後の変化がめまぐるしく、こういう原点が今日かなりぼけてしまっているようにも思える。
もちろん、非クリスト教圏である日本では、うわべの風俗・現象だけをトレースしていくのは仕方ないことではあるものの、このメディア時代に至る少し前までの変遷と、原初に近い姿を回顧しておくのも悪いことではないだろう。
土中埋葬の風習がある西半球では、死体の問題はけっこう身近で、ともすると「死体」ということばのイメージが、物体としての死体に先行してしまいがちになる日本とは、やや体感的な温度差があるだろう。
元来、死体であり、死体が歩き回る存在であった「吸血鬼」は、18世紀までは(哲学書簡等の比喩的なものは除いて)腐食と汚濁の存在であり、畏怖とともに生理的な嫌悪があったわけで、それが伝染する、という感じ方は「穢れ」という感覚に近いものがあるし、後年の、吸血鬼が血を啜る→啜られた者も吸血鬼と化す、という図式に受け継がれていったように思う。
そういった、汚物・糞尿のイメージであった、歩く死体、吸血鬼が、妖怪としての姿をはっきりと与えられていったのが、この「コリントの花嫁」登場前後の、プレ・ロマン派、疾風怒濤時代であったわけだ。
1.コリントの花嫁(ゲーテ
歩く死体が妖怪として描かれた、啓蒙時代の大衆文芸の中で、一人ゲーテの「コリントの花嫁」だけが生き残ったのは、その文学性の高さだけではなく、吸血鬼を「美しい死体」として描写した点にあったと思う。
吸血鬼という邦訳語のもとになった、吸血行為は、この作品以前に既に属性としてあったのだが、美、という概念を持ち込んだことは、ゲーテの特質であったと思う。*2 
そう、近代吸血鬼の登場は、まず、韻文の中に現れ、美しい乙女の姿だったのだ。
このBalladを今一度読んでみると、乙女は、花嫁(女性名詞)となる前の姿、Maedchenであり、liebes Kindと呼びかけられるのである。(いずれも中性名詞)
ドイツ語名詞の特徴、といってしまえばそれまでだけど、成人女性ではない、少女としての吸血鬼がそこに感じられるのだ。中性扱い、というのは、別にフタナリとかそういうのではなく、女性(あるいは男性)に成長する前の姿、社会的にまだ認められない、子どもとしての姿がそこにある。
人の世の愛を受け入れられない、異形の美、それがこの作品の、すぐれた要素の一つであった。
文学史の上では、このコリントの花嫁を含む一連のゲーテ・バラード群は、シラーとの出会いによって完成したドイツ古典主義の精華とも見られている。それほどに「詩」としての完成度も高かったのだが、それでもなお、「神秘的な素材」とか「土俗的な内容」を詩によって高める、といった論評も多く(今日においてもある)吸血鬼文学としての完成は、カーミラの登場を待たねばならなかった。
2.吸血鬼カーミラ(レ・ファニュ)
神秘と人格の双方を有し、かつ、審美的な幻想を定着してくれた点で、レ・ファニュのカーミラは吸血鬼文学の最高傑作と言っていいと思うし、以後の吸血鬼作品は、このカーミラをひとつの水準点にしながら語られていかねばならなくなった、とも言えよう。
この作品と、コリントの花嫁との間に、吸血鬼作品がなかったわけではない。むしろ、ロマン派の熱病が、実に数多くの作品を残してくれた。
中でも、『女吸血鬼』(ホフマン)と『吸血鬼』(ポリドリ)については、無視できない作品だし、吸血鬼バーニィや、フランス・小ロマン派が残した数篇の吸血鬼ものにも語りたい衝動に駆られるが、量が膨大になりすぎるので、またの機会にしよう。
ここでは、この不朽の名作に現れた、いくつかの特徴について私見を述べるにとどめておこう。
舞台が東欧であること。
中世以来、吸血鬼の本場はバルカン半島であったが、ハプスブルク帝国統治下のバルカン半島、という地理的区分を与えたことは大きいと思う。なぜなら、文明世界(カトリックハプスブルク)の辺境と、東方異教世界との接点、という、物語の足場が固定されたからである。これにより、吸血鬼は非西方世界に生まれながらも、西方(プロテスタントも含む)地域に流れ込むことができるようになったのだ。吸血鬼の世界化、といってもいい。
吸血鬼が美しい少女であること。
コリントの花嫁によって、「美しい吸血鬼」という方向性は示されてはいたものの、まだその磁場は不安定であった。ヒロインを恐怖させる男の吸血鬼や、老婆の吸血鬼、なども語られていたのである。しかし、この作品ではその貴族的雰囲気の中で、高貴で美しい少女(そしてもちろん異邦人であるが)が吸血鬼である、という役回りを与えられた。死体(無生物)から淵源した、もっとも高貴な進化の形態であると思う。
少女愛
美貌の吸血鬼が、男をたぶらかせて破滅させるのでもなければ、極悪な吸血鬼が、ヒロインを性的な窮地に追い詰めるのでもない、極めて非生産的な、同性愛としての少女愛、これがカーミラを決定的な名作にした要因の一つでもある。死体を淵源とする以上、そこには生殖は起こらないのであるが、妖怪を審美的なるものにしてしまうと、その淵源はどうあれ、性的対象物となってしまう危険性をはらんでいるのだ。20世紀以降の、アメリカ妖精小説のヒロイン・エルフが、男と性的につながってしまう例など、その典型だろう。
しかし、カーミラは男となどつながらない。ヒロインの世間知らずの少女の心に反映するのである。結実することのない愛、破滅のみを導く愛。これこそが吸血鬼小説が行き着いた次元であったとも言える。
残虐描写が排された。
コリントの花嫁は詩だったので、そういう部分はあまりなかったが、大衆小説としての吸血鬼ものは、残虐な、殺戮、解体、吸血、強姦描写などが多かった。当然、紳士淑女の読み物とは言いかねるわけで、おせじにも、保存するに足るものとは言い得なかったものが、この、幻想とも現実ともつかぬ曖昧な雰囲気を残したことによって、吸血鬼という存在を、肉体の簒奪者から、精神の簒奪者へと置き換えてしまった。この点、20世紀以降の暴力的吸血鬼と対称的であると思う。

・・・あと、ドラキュラ等の暴力装置としての吸血鬼や、ノスフェラトゥのスクリーン的効果についても書きたかったのだけど、さすがにちょっと疲れた。(^_^; 
またの機会に。

*1:もちろんそれ以前、日夏や澁澤あたりも指摘はしていたが、一つのテーマとして断言していた種村の姿勢は、当時としては少し斬新だった。

*2:この美が、Schoenheitなのか、Aesthetikなのか、という問題はひとまず置く。