火星の月の下で

日記がわり。

★本格探偵小説と変格探偵小説

最近のラノベやミステリの評論、もしくは感想等を読んでいて、少し気になることがあった。「本格」ということばであります。
他のジャンルは知らず、こと探偵小説とか推理小説とか呼ばれる分野には、この「本格探偵小説」とか「本格推理小説」とか言うことばは、けっこう昔からあって、昭和40年代に現代教養文庫や、東京創元文庫(創元推理文庫)とかを読んできた身としては、なかば「文芸用語」に近い感覚を持っていたのだ。
ところがどうも、最近の、新伝奇等の延長で語られる本格ミステリ、ということばは、かつてのニュアンスがほとんどなく、題材を真正面から受け止め、重厚な世界観のもとに構築されていれば「本格〜」と名づけられているような気がする。
評論やら感想やらのサイドから軽い気持ちで読んでいたものなので、特にどの評論で、ということはないのですが。
しかし、「黄金の二十年代(Golden Twenties)」とか、「読者への挑戦状」とか言った口上に馴染んでいた身にとっては、まったく別物のような気がするのだ。
もちろん、ことばというのは時代とともに変化していくのだから、現在の用法が間違っている、なんて頭の悪いことを言うつもりは毛頭ないし、そんなことが、今回の記録の目的でもない。
そうではなくて、現在の用法ではなく、かつて用いられていた用法について、少しばかり回顧しておきたい、これが今回の記録の目的である。
全てはヴァン・ダイン『探偵小説二十則』に始まった。少なくとも、昭和40年代頃までの私はそう理解していたし、おそらく、戦前、これが翻訳されてしばらくは、日本の推理作家達の多くは、このことばに魅了され、また呪縛をうけていたのではないか、と、そう思う。
二十則がどういうものかは、上のリンクを見ていただくとして、これが登場した、1928年が、黄金の二十年代のさなか、ということも重要で、都市型ミステリが形成し、確立されていく時期でもあった。(二十年代、といっても、中心は26年から、31年くらいまでである。この1926年という年はけっこう重要)
今日では首をかしげてしまうような、たとえば下女や下男が犯人の禁、政治的犯罪の禁、とかもあるが、要は「フェア」であること、つまり作家(探偵)サイドと読者サイドにはまったく等しく証拠やデータが与えられ、同じ材料から、知能勝負にもっていかなくてはいけない。それが最もフェアに行われ、なおかつ、それであるにも関わらず、意外性と衝撃を与える、これこそが優れたミステリである、というのだ。
今日のミステリ愛好家なら鼻で笑ってしまうかもしれない。また、ここの規範をあてはめてみて、完全に、とまではいかなくても、かなりな程度までこれに合致し、しかも面白く意外性に富んだ作品となると、たぶん10作もないだろう、と思う。
しかし、このハードルの高さは、作家の挑戦心を大いに刺激したのであろう、多くの試みがなされ、そして、合致しなくともその過程で優秀な作品は数多く生まれていった。
そう、この規範を満たすミステリこそが本格ものだったわけだ。
ここで簡単に近代都市型ミステリのルーツとなった、黄金の20年代を回顧しておこう。
黄金の二十年代とは、1920年から31年ころにかけてデビューした英米の本格推理作家のことで、だいたい次の6人を代表とすることが多い。デヴュー順。
F・W・クロフツ(英)、アガサ・クリスティ(英)、ヴァン・ダイン(米)。エラリー・クィーン(米)、ディクスン・カー(米→英)、クリストファー・ブッシュ(英)。
もちろんこれら以外にも優れた作品を残した同時代の作家もいるが、だいたい本国でもこの6人は別格だったと思う。(クィーンは2人合作なので、正確には7人なのだが、まぁ、共同名義ということで1人扱い)
さて、上に書いた1926年、という年、この年は、後に物議をかもしたあのクリスティの名作『アクロイド殺し』が発表された年で、かつ、ヴァン・ダインが『ベンスン殺人事件』で華々しく文壇に登場した年でもあったのだ。
推理小説のルーツは、古くは古代エジプトの伝承にまで遡ったり、そこまではいかなくても、だいたいポーの『モルグ街の殺人』あたりにルーツをもってきて、コナン・ドイルとノックスを経て探偵小説として完成、と見る向きが多いが、近代的都市型の「推理小説」としては、このヴァン・ダインのデビューの年こそが、その開闢を告げる年だったと思うのだ。
さて、英米の事情は書いていて楽しいのだけど、きりがないので、この辺にして、日本の問題について書いてみる。(アクロイド問題については、少し意見もあるのですが、これも書き出すと長くなるので、置いておきます)
捕物帖の伝統をもつ我が日本ですので、この英米のミステリ熱はすぐに感知し、いろいろな名作が書かれていった。
この「本格推理」もしくは「本格探偵」の枷をもっとも効率的に、かつ、うまくクリアした作家としては、高木彬光が上げられるだろう。横溝や乱歩なども、『本陣』や『D坂』のように、けっこううまく処理した作品があると思う。
ただ日本人の特性として、たとえばミステリにおいて英米人がしたようなもの以外に、たとえば、17世紀フランス演劇人が規範とした三統一のようなものも含めて、欧米人が得意とした形式の枷をはめて、そこから凝縮度の高いものを作っていく、というのはあまり得意だったとは言えず、やはりある種の心理試験、心霊、伝承、伝奇、と言った要素は入ってきたと思う。そして、日本では、そういう味付けの濃いものに「本格」にあらざるものとして、「変格」の名が与えられた。ちなみに英米のミステリで言う「変格」とは、D・ハメットやチャンドラーのようなものだったはずで、これも日本の場合とはかなり趣が違うといえよう。
さて、その変格だけれど、実際に今日伝奇ものと呼ばれている、新青年系のものはあらかたこの範疇に入ってしまうのではなかったか、と思えるフシがある。艶とか怪奇的要素を排することで、良質のエンターテインメントを生み出す、というのは、少し堅苦しかったのかもしれない。「本格」ものもそこそこ人気はあったものの、「変格」ものの領域はほぼ無尽蔵に広がっていく。風太郎や虫太郎、香山などはその代表であったと思う。
そうなると、本格の対としての変格、という名はあまり意味をなさなくなって、いつしか忘れられていった感があるけれど、「本格」という名は「本格的な」ということばの連想を生みやすかったせいか、別の意味を与えられて、生き残った、そんな感じがするのである。
随分まとまりのないことをズラズラ書き連ねてしまったけど、まぁ、個人の日記だから、いいか。(^_^; 
また何か思いついたらこの件について書いていこう。