火星の月の下で

日記がわり。

ゴート語について

一昨日の記事、クリミアゴート語について、もう少し追加しておく。といってもゴート語についてだけど。
欧州の古典古代と中世を分かつ分水嶺、帝国の滅亡と、民族大移動。その主役になったのが、このゴート語を残したゴート族。
英語、ドイツ語といった有力言語を含むゲルマン語派は、言語学的には、大きく東、西、北の3派に分かれる。
英語、ドイツ語、オランダ語等が西ゲルマンに属し、デンマーク語、アイスランド語ノルウェー語、スウェーデン語などが北ゲルマンに属する。*1
残る一つが東ゲルマン語なわけだが、これは今日では滅んだ言語。ところが、後述する『ウルフィラのゴート語訳聖書』という、現存する限りまとまった最古のゲルマン語文献資料によって、今日にいたるまで、言語ジャンキーの興味をひいてきたわけなのだ。(・・・いや、もちろんそれだけじゃないけど(^_^;)
話し手たるゴート族は、現在のスウェーデン南部を故地とし、紀元前1世紀頃、バルト海をわたり、対岸である現在のポーランド沿岸に上陸する。
原因はよくわかっていないけど、たぶん、人口の増えすぎか、当時の気温が少し変化したことによるらしい。
その後南進したゴート族は、南ロシアに入り、黒海の沿岸に到達する。
西と南には既に強大なローマがその版図を広げていた。しばらくここにいるうちに、ゴート族は東のオストロゴート、西のヴィシゴートに分かれ、以後別々の運命をたどることになる。
その後、東方から来たアジア系のフン族に押し出されたり、ローマ帝国内に傭兵として入っていったりしながら、ついにいろいろあって、帝国は滅亡する。
直接、帝国に終止符を打ったのはオドアケルというゲルマン人傭兵隊長だったが、即座にテオドリッヒの東ゴートにより滅ぼされ、この西ローマの中枢だった地は、テオドリッヒの東ゴート王国が統べるところとなる。
さて、帝国が滅びる少し前、ゴートの民がローマと接触するに従って、内部にキリスト教を布教しようとする勢力が出て来た。
ウルフィラは、当時の西ゴート人僧侶で、当然のことながら、ゴート語を解し、ギリシア語、ラテン語にも広く通じていた。新約の原典はギリシア語である。
ゴート人として始めて伝道司教となった彼は、布教の目的で新約聖書をゴート語に翻訳した。
文字や用語の問題、アリウス派の問題とかいろいろあったけれど、これが今日残存しているのである。もっとも、残念ながら、すべて、ではない。
その最古の写本は、その後いろいろあって、運命の皮肉か、現在はゴート族の故地である、スウェーデンの王立図書館に蔵されている。所謂、銀泥写本である。
東ゲルマンの言語としては、それ以外のゴート語や、ブルグンド語やランゴバルト語の人名、借用書、支払い書、カレンダー等、断片的な物はいくつか残っているが、教養ある人物によって書かれた、まとまった文献資料としては、これのみ、と言っていいはずだ。
正確な記述年代はもちろんわからないけれど、たぶん4世紀の後半といわれている。
北欧のエッダの最古のものが、8世紀の後半、アングロサクソン語(古英語)最古のベオウルフ*2が8世紀後半、ドイツ最古の民間伝承ヒルデプラントの歌が8世紀末から9世紀、と言われているのに比べると、格段に古い言語資料である。
もちろん、これらは民族歌謡を題材とした、純粋民族文学の立場からの話であって、教会の説教集や、聖書の部分訳等で、このウルフィラ聖書の間をつなぐものはある。
しかし、それでもこれほどまとまった資料ではないため、やはりこれは第一級の資料である、というわけだ。
ゴート族はその後、東が6世紀にビザンティン帝国(東ローマ)によって、イベリア半島に建国した西ゴートが8世紀に、対岸のアフリカから侵入したイスラム教徒によって滅ぼされ、歴史の舞台から姿を消した。
しかし、このウルフィラによるゴート語訳聖書によって、われわれ言語マニアの心にしっかりと刻み込まれることになったのだ。
現存するゴート語資料としては、次の通り。
1.ウルフィラによるゴート語訳聖書。新約の一部だが、旧約も、ネヘミア紀の断片が残存。
2.スキーリーンス。ゴート語による、ヨハネ伝注解の断片。
3.ゴート語のカレンダー。教会祭日の記されたカレンダー。
4.土地売買証書のゴート語による署名。
5.アルクイン写本の断片。
6.ラテン語文書、銘文等に残された若干の単語。
7.16世紀のクリミアゴート語。約70語(86語を数える学者もいる)が残されている。
こうして見ると、クリミア半島で、東西ゴート王国が滅んで後、800年近くも、黒海の沿岸で細々と生き残ってきた、というのは興味深いことだ。
もっとも、古形をとどめていないところも多いらしいので、これがウルフィラの時代のゴート語と関連があるのかどうかについては、諸説あるようではあるが。
昔、StreitbergのDie gotische Bibelをちまちま読んでいた頃、クリミアゴート語の名前だけは知ってはいたけど、インターネットの時代になって、簡単に資料が読める時代になった。
ちょっと感慨深いものがあったりしますなぁ。
もっとも、一昨日のリンクは、まだちゃんと読んでないのですが。(^_^;

*1:統一ドイツ語が厳密には民族言語とは言いかねることとか、ノルウェー語というのが実は2つある、とかいうのは、ここではひとまず置く。

*2:一応ベオウルフは英文学の中で取り扱われるけれど、物語はサクソン族がブリテン島移住以前のもの。ただし、その言語は、アングロサクソン語、として間違いないらしい。