火星の月の下で

日記がわり。

学漫あれこれ

右のアンテナに勝手に入れさせてもらってる、D.B.E三二型さんのニュースを見ていると、学漫について言ってるブログがあったので、ちょっと覗いてきた。
うーん、やっぱり予想した通り、最近の人のようである。
「学漫」と「がくまん」の呼称問題に触れていないのはまだしも、歴史を溯るのであれば、伝統の早稲田漫や九州大漫研、呼称問題の主役だった同志社大漫研とかについてまったく触れてないばかりか、大学漫研でない、中高漫研を学漫のように書いている。
まぁ、時代かなぁ。
70年代の学漫については資料が少ないので、こうなっちゃうのは仕方ないんだけど、かつて60年代後半にCOMで組まれた「がくまん特集」で、同人誌の息吹を感じていた人間としては、ちょっと寂しい気がするのも事実。
今日、同人誌の歴史、みたいなのを語るとき、第1回コミケが開催された75年12月以降は、コミケ参加サークル資料を盲信する傾向があるように思う。
個人的感想だけど、コミケ参加サークルでもって全体像がなんとなくわかってくるのは、ロリコンブームが定着しだした80年代前半になってから、という印象があって、それ以前だとまだコミケ参加サークルでもって全体像は語れなかったと思う。
ましてや、ぐらこんが事実上停滞しだした70年から*1コミケが全国規模になっていった79年頃までは、全体を俯瞰できる資料というのがぽっかり抜け落ちていて、そこが70年代の同人誌を語る難しさにもなっているんだけど、そんな中で、学漫ていうのは、比較的資料の継承性があったので、全体像の俯瞰とまでは言えなくても、当時のムードは割と忠実に再現ができていたと思うわけ。
従って、第1回コミケに参加していないからといって、九州大や同志社、関西大、神戸大なんかの伝統学漫の名前が上げられてないのは、ちょっとどうかなぁ、と思ってしまったわけなのですよ。
それと、同人誌の場合、運営形態が80年くらいを境にして、前後でちょっと違う、っていうのも書いておきたい。
今では「売る」ことに特化してしまっているけど、かつては会員外へ売ることは外部頒布、などと言って、必ずしも売ることを目的にはしていなかった。
個人誌というスタイルは、70年代当時からないわけではなかったけど、普通は雑誌なんかで同好の士に呼びかけて、会費を徴収して行うサークル誌が普通で、もっと前には肉筆回覧誌、っていう、ちょっと今では考えられない形態が、ごく普通にあったわけである。・・・肉筆、なんて言うと、今ではエロ本ぽいけどね。(笑)
肉筆回覧誌、っていうのは、会員の原稿をビニール袋とかに1頁ずつ入れて綴じたものを、仲間うちで回覧するもので、当然遠隔地に入る会員には郵送―返却(もしくは別の会員への郵送回覧)という風にしてまわしていったのだ。
当然、途中で紛失事故なんてのもけっこうあるので、受け取るたびに確認のハガキを会長のもとに送る、とかしていたわけ。
今では普通になったオフセット誌、というのは、記憶で書いてるので年月は自信がないけど、68年の作画グループ*2によるものが公式には最初だったと思う。
公式には、と書いたのは、小規模なオフセット誌自体は、それ以前から九州や関西でミニコミ誌の延長みたいな同人誌でポツポツとはあったけど、会員を集めて同人形態で出して、告知もされ外部頒布もされていたのは、たぶんこれが最初、という意味である。
それ以前の同人サークルは、だいたい肉筆だったと思う。
コピーは今ほど綺麗じゃなかったし(ベタがとぶ場合が多かった)高かったこともあって、ガリ版とか青焼きとか、今では想像もつかないような手段に頼っていたのである。
当然、あの黎明期の同人誌『墨汁一滴』*3なんかも、肉筆だったはずである。
学漫について触れるつもりが、なんかとんでもない方に行ってしまった。
機会があれば、私の知っている、昭和40年くらいから後の同人誌体験なんかも書き残しておきたいと思う。
それと、70年代の女子大漫研では、高橋留美子が出たことで日本女子大の方が有名になってしまったけど、伝統とか安定感、という意味では、断然東京女子大でした。
うちには、第3集くらいからあるな。。。(^_^;

*1:COMの休刊自体は70年代に入ってからだったけど、実際に全国活動としての機能は、70年くらいで消えていたと思う。

*2:作画グループと言っても、知らない人もいるかもしれないので簡単に補足しておくと、上のぐらこん関西支部を母体にして大きくなった大阪の同人(ぐらこん以前から存在はしていたが)で、一般的には聖悠紀の『超人ロック』が同人作品として掲載されていたサークル、と言ったほうがわかりが安いかもしれない。みなもと太郎とかあずみ涼とか、多数のプロ作家が所属したり生まれたりして、70年代の数年間は、日本最大の同人サークルであった。その後東京に移動、OUTや少年キングなんかで取り上げられていたのが東京時代だったので、東京のサークルと思っている人もいるかもしれない。

*3:後の石森章太郎が所属していたことで有名。