火星の月の下で

日記がわり。

和独辞典と第2外国語考

難波に出たついでになにげなく立ち寄った古書店、そこで『相良守峯・和独』が200円という安価で置いてあったので購入。
従来、それほど和独辞書、というものは使ったことがなくて、一応世間で評判の高かった三修社の『シンチンゲル・独和』を購入したときに、ついでに同じ編者の和独辞書を購入したくらいで、ほとんど購入してこなかったし、その購入した和独もほとんど使うことなく今日にいたっている。
和独に限らず、和英以外のたいていの日本語―外国語辞書は購入してこなかったのだけど、その最大の理由は字の配列にあつて、和英以外はABC順になっているのが多く、どうにもひきづらい、というのがあり、それの世話になるなら、正書法の辞典とか見ながらの方がよっぽど早くかつ有用だったからだ。
ただし、それは学生時代のこと。今回、この古色蒼然たる和独を買ってきてチラチラ斜め読みしていると、そこには字引としての機能だけでなく、彼我の表現方法の違いにまで言及してやろう、という意識がほのみえて、ある程度年をとって、語学それ自体が趣味になってしまった身には、けっこう楽しく、かつ時を忘れてしまうものだ。
和独とは違い、独和辞書には学生時代からけっこうこだわりがあつて、最初中学に入る前に始めたときは、どれがいいか、っていうより、とにかく安価なもの、ということで、たぶんコンサイスあたりから使っていたと思うが、そのうち学生の定番が上に挙げたシンチンゲルの独和らしいこと、学問的で定評があったのが『博友社・木村相良』だったらしいことがわかってきて、小遣いをためて両方を購入した。
たしかに細かいところまで目が行き届いてて現代語にも詳しいシンチンゲル独和と、語源から説き起こしていたりするフィロローギッシュで読んで楽しい博友社は定評があるのもうなずける、と一人悦にいっていたものだった。
まぁ、和独は上のような理由でほとんど使わなかったけど、それでもそんなに不便は無く、もっぱら通じるかどうか、ということよりも、好きな作家の本を読むため、というのが大目標だったので、存在すら忘れていた。
文法学習、文章論学習に入ってくると、ときおり聞こえてきたのが、辞書と同じく博友社から出てた相良の『ドイツ語学概論』で、これもけっこう読んだ。*1
もっぱら関口学徒であったし、相良の文法用語はいかにも古臭い感じはしたものの、比較的安価に読めた、ということもあり、関口の著作の次にはけっこう再読三読してたような記憶がある。
長命であり、戦後も長く語学の出版に携わってきたらしいこともあって、東京帝大独文3傑の一人、相良守峯の名は関口の次に脳裏に刻み込まれていった。独文3傑、というのはどこで聞いたのかもうはっきりと覚えていないが、語学の相良、文学の木村、演劇の新関だったと思う。新関良三の名は、ドイツ演劇を越えて、広くギリシア演劇の研究家としても知られていた。
博友社の木村・相良があまりに面白かったので、相良守峯氏だけの名前で刊行された『大獨和』も購入したけれど、中辞典のわりには受けるインパクトは木村相良ほどではなかった。今読むと、また違った感想になるかもしれないけど。
その後、小学館から『マイスター』というけっこう面白い辞書も出てきて、独和は好みによって選べる程度にはいろいろ出ているようだ。
ただ、第2外国語として、ドイツ語の必要性、っていうのは、もう昔ほどはないだろう。
ドイツ語を専門にやるとか、ドイツ文学を研究したいとかっていう人以外では、もう社会的需要はほとんどなくなっていると思う、残念だが。
もっともそれでもいいかな、とは思っている。
好きなものだけがやればいい。一昔前みたいに、呪文のように「デル・デス・デム・デン」を覚えさせられたりしても、青春の思い出以外に、社会的有用性はもう希薄だろう。
将来再び携わらなくてはならないかもしれない、というなにがしかの可能性、有用性がある、というのなら、それはスペイン語アラビア語、ロシア語、ポルトガル語あたりだろう、と思う。
漢語も入れてもいいかもしれないが、支那以外での環境だと、むしろ普通話以外の言語が必要になってくるので、それほどの効果が見込めるかどうか、少し疑問も感じる。もちろんこれらは「第2外国語として」であって、どんな言語であれ、米語が必須になる、というのは前提ではあるけれど。
そんなわけで、社会的実用性は低くなったかもしれないが、それでも学び甲斐はそこそこある言語だと思っている。
関口のことばだったと思うが、「語学は男子一生の仕事にたる」みたいな言があった。まぁ、私は趣味として、だけどね。
そんなわけで、相良の和独を拾い読みするのがけっこう楽しい昨今である。

*1:上記、相良和独は三修社