火星の月の下で

日記がわり。

欠史八代

11日の紀元節の日になにか書きたいと思ってたんだけど、ちょっと考えがまとまらず、ズルズルと過ぎてしまった。
今もまとまっているわけでもないけど、このまま書かずに時間が過ぎていってしまうのもちょっとしゃくなので、全然まとまってはいないけど、雑然と記しておく。
初代・神武帝が橿原の地に座して後、第10代崇神帝までの、第2代綏靖帝から第9代開化帝までの八代を、通称欠史八代という。
たいていの国史研究ではこの八代を架空の系譜として扱い、初代天皇として崇神帝をもってくるものである。
実在説もあるにはあるが、その根拠は脆弱とされており、趨勢は後世造作説の方が有力のようだ。
年号や父子相続については、確かにおかしなところがあるし、なにより旧辞がほとんど削られていることから、記紀を普通に読むだけでも存在感は希薄な印象になる。
諸説いろいろあるけれど、私は、在位期間、名称に疑念は残るものの、実在していたんじゃないかな、というのが今の実感。
この帝紀旧辞についてだけ今回は書くけど、旧辞がないのは、これは口伝に負うところがあったことが関係しているのじゃないか、という気がしている。
過去の系図というものは、創業者と改革者は記憶に残りやすいけど、継承者というのは忘れがちである。欠史八代というのは、まさにこの継承者の一群ではなかったのだろうか。
それと、古代においては、まとまった系譜としての伝承というより、一代ごとの記録だった可能性もある。
それは八代の中で2代綏靖帝のみが神武紀の中にその帝位に就く過程が描かれているからで、事跡の記録が、次代の王によってなされていたのは明らかだろう。
兄弟相続をとびこえて就位したにも関わらず、綏靖紀には旧辞はない。
陵についても、今日批准されている陵墓こそむしろ編纂時の推測で、皆、創業者の墓に入ってたんじゃないかなぁ、という考えだ。継承者というのは、同じ墓に入るものだし。
一代ごとの巨大古墳は、改革者以降の発想のように思える。
ということで、市井の妄想家のたわごとに過ぎないのだけど、紀元節の近く、ということで、少しばかり記載しておく次第。