火星の月の下で

日記がわり。

コミックマーケット創世記を読む

コミケ前にこんなのあげたら、まずいかもしれんので、簡単に感想だけ。
コミックマーケット創世記』朝日新書・・・・を読む。
右のあんてなに入れてる漫棚通信さんところで知ったのだが、コミケ初代代表・霜月たかなか氏が語るコミケ開催の頃、という内容。
まぁ懐かしいこと、懐かしいこと。
コミケ成立前の事情として、COMから漫画大会までの、ミッシングリンクをかなりうまくまとめていると思う。
この時期に関してのまとまった書籍がかなり少ないので、その1点だけでも非常に価値があると思うし、同人誌のみならず、漫画文化を語る上でも非常に重要な一冊で、その点、評価してしすぎることがない、と思えるくらいだ。
そういう前提で書くが、それでも個人の記憶、思いでを中心にまとめられているので、かなり遺漏もあるし、おそらく著者が意図的に書かなかったんじゃないか、と思われる箇所もあった。また、少し事実とは違うんじゃないかな、と思える箇所もあった。
そういうところも含めて少し書くけど、前提である、この本の価値はとっても大きいものだ、ということは重ねて書いておく。
まず、第1回コミケ前後の頃。
これについては、私も書庫をひっくり返したら何かでてくるかもしれないので、あまり個人的なことは触れないが、私もたしか別コミに投稿された告知を見て行ったと思う。
ただそのときの印象はあんまり残ってなくて、ここで語られていたようなこともあまり記憶にない。
併設されたイベントも、参加しなかったんじゃないかなぁ、と思っている。
個人的には、もうこの頃は漫画家はやめてたか、やめる決意をしていたか、の時期だったので、けっこう落ち込んでいた時期でもあって、あんまりちゃんと憶えてないのも、そういう暗い気分と重なっていたからかもしれない。
一方第2回くらいから四谷でやった第9回くらいまではけっこう思いでに残ってて、これは友人と行ったりだったからだろうと思う。
さて、この前後の状況で、教えられることが多かったのは『日本漫画大会』でのこと。
開始当時けっこう聞いた「漫画大会や既存のイベントでの不満」という点に関して、私はむしろ「復活上映委員会」のことかな、と思っていただけに、ここで語られているイザコザについては、長年の疑問が氷解したような感じだった。
こういうのは両方から聞いてみないとわからないものだけど、当時の雰囲気を考えると、かなり事実に近いかな、と思ってしまう。
ただ、かなり穏便に、というか隠されているようなところもあるのは・・・おとなとしての対処なんでしょうな。(^_^;
復活上映委員会*1がらみに関しては、むしろ地方での問題だったかな、という気がする。ただこれについては、一番目から3番目くらいの大手はむしろちゃんとやってたような印象だったので、あんまり個別には書きたくないけど、69年から、77年頃までの復活上映委員会に関しては、ファンジンの取り扱いについていろいろと問題も出ていた。けっこうえげつないのも目撃したし。(笑)
そして執拗に出てくる『COM』の残照。
新書形式という限られた頁の中なので、もっぱら破綻してからの方が重点的に書かれていたが、短期間だった『COM』にも2つの時期があったと思う。
最初の2年間、もっと言うと、『太陽と骸骨のような少年』が縮小投稿された創刊第2号から、第1回新人賞受賞後作品『ガラス玉』が掲載された翌年までの1年半の時期。『COM』がもっとも熱く、ドキドキした時期である。
そして後半、ここでも語られている『COMコミックス』になってしまった頃からの時期で、この時点でもう『COM』は文化史的使命を終えていたような感じだったが、「ぐら・こん」によって目覚めさせられた各地のヲタク(もちろんこの言葉は当時まだなかったが)たちはそのありえたかもしれない姿を希求して煩悶していた。
これに関しては他にも書物や証言はあるが、ここでも著者の実体験周辺のことが語られているので、なかなか生々しいし、リアリティがある。
上で私も「文化的使命は終ってた」と他人事のように書いたが、当時はあの衰退が許せなくて、でも自分には非力で何をどうしていいかわからなくて、というのが切々とあった時代である。
コミケ初期には、あの「ぐら・こん」の敗退と、24年組と、ヤマトを主とした、なにか新しいことが始まるかも知れない、というかすかに曙光が見え始めていた、そんな時代だった。私自身はかなり暗い道のりをトボトボ歩いてはいたが。(笑)
そして同時に、示導動機に近いように、常に響いている24年組萩尾望都への敬慕。
これは今の若い人にはちょっと想像できんだろうなぁ、と思ってしまうが、70年代初期の萩尾ショックは、少年誌サイドの永井豪ショック*2とともに、当時の創作者たちに強烈なインパクトを与えたのである。あまりに強烈すぎたせいか、その後、軽いコメディを書いたりすると筋違いな批判がきたりして、作者をも困らせてしまったりもしていたような時期だったのだ。
個々の作品の嗜好に対しては、やや異なるところはあるが、当時の漫画ファン達の傾向を実によく表してくれていて、そういう観点からも良い読み物、良い証言になっていると思う。
後半に、第9回以降の、代表をやめる時期までの記述が少し痛々しく、悲しげだったのも印象的で、ここではかなり意図的に書かれていないことをいろいろと思ってしまったわけだが、まぁ、著者の姿勢を尊重しておこう。
ただ、私は、こう書くと著者の意向からははずれてしまうかも知れないけど、米澤代表時代以降のコミケにはさほど思い入れもなくなってしまったので、あの四谷時代までのコミケの熱を懐かしく思う一人でもある。
あと、冒頭の似顔絵、なんか似ている、というより、昔の当人の顔が浮かんできてしまって、けっこうニヤニヤしてしまったところでもある。何人か顔を知らない人もいたけど。
関西の同人スピリッツの温床の一つでもあった『チャチャヤング・ショートショート』や本文でも名前だけはあがっている『プレイガイドジャーナル』なんかについても書こうかと思ったが、資料を出してこないと思い出せないこともありそうなので、この辺にしておく。
また思い出したこと、書庫からなんか出てきたら書いていこうと思うが、コミケ前だし、ここまでにしておく。

*1:誤解を避けるために一応書いておくと、「復活上映委員会」と言うのは「日本漫画大会」のように、1つの統一組織ではなく、各地方でそれぞれが勝手にやっていたものの総称なので、「復活上映委員会」という全体を統括したりする組織があったわけではない。ただ○○復活上映委員会と名乗ることが多かったので、便宜上そう読んでいるだけだ。○○に入る作品として、ホルス、ロビン、009(モノクロTV版)等が多かったと思う。これも統計とかがとれればいろいろと面白いが、個人の記憶なので。

*2:便宜的にこう書いたけど、『ガクエン退屈男』『魔王ダンテ』の時期である。