火星の月の下で

日記がわり。

◇訃報・山内一弘氏

今朝知ったのだが、山内一弘氏が亡くなられたらしい
大毎、阪神の強打者で、ミサイル打線の主軸だった打者。
山内氏と言うと、我々の世代としては、なんといっても小山との「世紀の大トレード」で、それ以後大物のトレードもそんなに珍しくはなくなったが、当時としては、驚天動地の大トレードだった。
山内は移籍して、阪神の優勝に貢献、小山は30勝して最多勝と、そこそこ成功した形になったので、後に続く形もできたのだと思う。
Wikiなんかを見ると、いろいろとエピソードが載ってるが、大半が大毎時代のものなので、両方から覚えているものをいくつか書き残しておこう。
まず大毎時代。
いわゆる「ミサイル打線」と言われた大毎の中軸打線、2番田宮、3番榎本、4番山内、5番葛城・・・の破壊力はすさまじく、当時「400フィート打線」といわれた南海とともに、強打の球団だった。
1960年、10年ぶりの優勝で、山内がMVP。
ときの監督が就任1年目でいきなり優勝の西本監督。
この年の西本監督のエピソードも有名で、永田オーナーに采配に文句をつけられてバカヤロー辞任になり、監督としては優勝しながら1年で退団。
だがそれ以上に有名なのが、監督信任事件で、大毎は前年までの人気監督、別当を慕う声がファン、選手の中にも多く、西本の指示に従わない選手も何人かいた。
そこで西本が選手を一堂に集めて「おれを信任できるかどうか、選手で投票してくれ」と言ってその場を去った。
このとき選手の意見をまとめたのが山内で、「ひとつここはおっさんの手腕を見せてもらおうやないか」と言い、それに榎本以下が同調した、という経緯だったらしいことが、大昔、週刊ベースボールに載っていた。
後年、阪急監督になったときも、西本は「信任投票事件」を起こして、このときはあわや退団、というところまでいったようである。
フランチャイズ制がまだ確立していなかった頃なので、西本は大毎オリオンズを「在阪球団」*1と認識していたみたいで、引退後のインタヴューで、都市対抗で関西を離れた後は、プロ入り後ずっと関西、という発言を残している。
西本のことを書いたのは、西本氏も哀悼のコメントを残していたからで、教え子の方が先に逝くのは、西本氏としても残念なことだったろう、と思うからだ。
オールスター男、と言われたのは、ほとんど大毎時代で、昭和30年代、オールスターは「セの長嶋、パの山内」の時代が何年か続いていた。
そして阪神時代。
数字だけ見ると、ガクンと下がってしまうが、これは山内以外にも強打者がゴロゴロいた大毎と違い、阪神では強打者がほとんど山内一人だったことが原因としてある。
球団史を見ても、2リーグ分裂で別当、土井垣らが移籍してから、昭和40年代に田淵が入団するまで、阪神には大砲がいなかった、というか、ほとんどこの山内一人である。*2
当時の阪神の中軸として、藤本、並木、後藤などもいたが(吉田はどちらかというと好打者)、他球団の主軸と比べるといかにも見劣りがしたし、毎日移籍後山内の同僚となりミサイル打線の一翼を担った田宮も、阪神時代は大砲というほどではなかった。
そんな中で、ほとんどただ山内さえマークすればOK状態の打線だったので、幾分考慮するべき数字だろう。
指導者時代、というのはいろいろと声が残っているが、総括すると「コーチとしては優秀だが監督としては疑問符」といったところだろうか。
コーチとしても、落合やイチローとの確執もあり、いわゆる天才肌のタイプとはあわなかったようだが、並選手(並ではプロにはなれないんだけどね)には良いコーチだったようである。
記録面があまりにすごいのて、やはり指導者というより、昭和を代表するな選手、ということだろう。
とにかく、偉大な選手だった。合掌。

*1:大毎というのは、大映と毎日の合併によってできたもの、というのが正式であるが、当時の感覚としては、大阪毎日の略称というのが一般的だったこともあったのだろう。まだ毎日放送が千里にあった頃、ビル内の喫茶店が「オリオン」という名前だったり、このあたりも、オリオンズという球団を東京毎日ではなく、大阪毎日の方がしっかりフォローしていた感覚が強かったのだ。しかも当時は真性の関西球団がパだけで3つ(阪急、南海、近鉄)あったため、関西在住の選手も何人かいた。ただし、球団正史は、毎日時代のフランチャイズを東京としている。

*2:両リーグ分裂初期の藤村がギリギリ該当するかどうか、くらいかな。それでも藤村が衰えた昭和30年代からは、こういう表現でもいいと思う。