火星の月の下で

日記がわり。

▽ある巨人軍選手の死

訃報:難波昭二郎さん74歳=元プロ野球選手。難波3塁手、懐かしい名前である。
しかし関西大学の難波3塁手、と聞いて、いったい何人くらいの人が「ああ、難波の飼い殺しか」と連想するであろうか。

大阪府出身。関西大から1958年、巨人入団。関西の大学球界を代表する三塁手だったが、同期に長嶋茂雄さんがいたため活躍の場に恵まれず、62年に西鉄に移った。

この記事だけ見ると、無名に終わった巨人軍戦手、といった感じだが、当時の事情を知っていれば、「飼い殺しの難波」としてあまりにも有名な選手だった。
上の記事にもあるとおり、巨人入団前は「東の長嶋、西の難波」あるいは「立教の長島、関大の難波」といわれた大学球界のスーパースターだった選手である。
長嶋の巨人入団に関しては、いったん南海ホークスに決まりかけていたのが、急転直下、巨人に決まった、というのが有名だが、そのゴタゴタとも関係している。*1
巨人は当時、大学球界の大物、難波3塁手の獲得に動いていたが、難波の側から、「長嶋が巨人に来るのではないか」と、再三問い合わせていたそうで、ポジションがかぶるため、相当気にしていたらしい。
ところが当時のスカウトが、「長嶋は南海で決まりなので、うちには来ない」といって、難波との契約を先に進めてしまった。
難波はこのことばを信用して、巨人軍入団。ところが、その後、急転直下、長嶋の巨人入団となったわけで*2、70年代後半頃だったと思うが、当時のベースボール・マガジンに「だまされたと思った」みたいなことが書かれてあった。ただし、難波選手のことばではなく、取材した記者のことばとして、だったと思う。
ともかく、巨人軍は人気がはるかに高かった長嶋をメインに使うことを決めたため、難波は控えに甘んじることになる。
難波はさかんにトレードを希望したが、水原、川上はこれを認めなかった。
両者の意見はわりと一致していて、難波を出せば、その球団の主軸となり、巨人の脅威となる、というものだった。
かくして、難波は出番が与えられることなく、トレードにも出されず、ピーク時を過ぎることになる。いわゆる「難波の飼い殺し」である。
巨人は1961年にも、当時、関西大学2年生だった村瀬を9月に中途退学させて入団させ、その年(川上巨人1年目)中日相手に終盤の逆転優勝を達成するも、村瀬は翌年、肩を壊して、この年の3週間で5勝(4完投・3完封)という記録で野球人生を閉じることになる。(一応翌年にも2勝はしているが)
関西大学にとっては、有望な選手を2人も巨人につぶされたわけで、ふんだりけったりだったわけだが、難波選手、というと、そういったあたりのことを思い出してしまうわけである。

*1:ついでに書くと、長嶋は立教大学2年時にも上級生との対立で、杉浦とともに、中退→中日入団、という流れになりそうなこともあった。当時は、高校、大学を中退してプロ入団、というのも、今ほどには珍しくなかった時代である。

*2:南海から大沢を通じて「栄養費」の名目で、かなりの金額をもらっていたことも今ではかなり有名だが、今回はそれを書くのが目的ではないので、言及しない。