火星の月の下で

日記がわり。

イエスは吸血鬼か?

欧州の妖怪について考えていたとき、その淵源としての吸血鬼に少しばかり思い至ることがあったので、簡単に記録。
文芸の上に現れた吸血鬼としては、カーミラの前と後でかなり様相が違う。
カーミラ以前として重要な、ゲーテの譚詩『コリントの花嫁』については、幻想文学タグのところで既に述べた。
さらにそれ以前、近代以前は、死体であり、その死体の復活と、人を喰らうことの方に主眼があった吸血鬼。
血を吸う、というのは、死者をむさぼり喰う、というのと対になっていて、生者においては血を吸う、という形をとったのであろう。
少なくとも原初においては「美」とはほど遠い、醜怪な死体の化け物、といったニュアンスが強かった。
さらにさかのぼっていくと、死者に対する恐怖、死者の復活、そして死にながら生者を襲う魔としての怪奇、恐怖があった。
死体復活の伝承は、バルカンから中近東にかけて、ごく普通にあったようだし、おそらく洋の東西を問わず、似たような死者への恐れから来る伝承は、宗教の淵源ともつながっていて、たいていあったはずだ。
新約福音書に描かれたイエスの復活、宗教的な意味はひとまず置くとして、どこまでが歴史的可能性をもっていたのか、ということについては、古来、いろいろな考え、意見があった。
だが、死者の復活ということから宗教の衣をとってみると、そこには伝承としての死者への恐怖といろいろと重なってくる。
この伝承は吸血鬼のそれではなかったか。
磔刑に処せられた、多大な影響力をもっていた30前後の男。
その男の死体が、忽然と墓所から消えている。
2000年近い昔の書にどれくらいの物理的事実が書かれていたかは、想像の域を出ないけど、たぶんここまでは事実の可能性があったろう。その死体が洪水等の事故で流出したか、誰か信者が盗み出したかはともかく。
ところがこれを見た人々が、死者復活の恐怖を想い、そこに魔としての姿が、聖としての姿へと転化していく。
吸血鬼であったはずのものが、偉大なる聖霊、神の子として昇華されていく。そんな幻想を抱いてしまう。
太古から息づく、死者への恐怖、死者への想い。
それが魔に転がれば吸血鬼となり、聖に傾けば救世主となる。
魔の存在を思いつつ、日曜の夕刻、そんなことをぼんやり夢想してみるのである。