火星の月の下で

日記がわり。

少なくともクリエイターは一次資料をあたるべき

某深夜アニメを見てると、魔術師だの魔法使いだのという単語がポンポン出てくるんだが、内容を吟味してみると、
ああ、物語はシリアスにやってんのに、魔術とかまともに研究したことがないんだろうなぁ・・・
と思う場面に頻繁に遭遇。
以前固有名詞を上げてラノベの魔術について書いたら、なんか脳の不自由な人達のブクマにさらされまくってしまったので、固有名詞は書かないけど、日本(そしておそらく米国も)の、原典を読まずに、ハウツー本みたいな2次、3次、4次資料で仕入れた、項目羅列型の誤記文献で頭をパンパンにしちゃってるクリエイターの、そういう魔術知識にはやや危機感を感じる昨今。(笑)
2次、3次文献には、もちろん正しい邦訳もあるんだけど、誤訳がまかり通っている物も多い。しかもそれが定番の知識扱いになっていたり、Wikiに堂々と載っていたりするので、頭の痛いことおびただしい。
もちろん、娯楽として享受している視聴者は、そんなことは考えなくてもいいし、面白いか面白くないか、だけで判断すればいいんだけど、少なくともクリエイターであれば、一次資料をあたるべきではないか、少なくとも一次資料を吟味している資料をあたるべきではないか*1。まぁ、研究者でもないのに、それをやるのは相当大変だろうとは思うけど。
こう思うのは、誤訳文献が出回っている頻度、という点では、実は日本語よりも米語文献の方が多くて、米語による近代魔術関連は、大半がその誤訳の上に成立している。
邦人はその米語文献を読んで、勘違いしちゃうんだなぁ。。。これが原典だ、と。
聖書をヘブライ語ギリシア語で読め、少なくともラテン語のヴルガータに目を通せ、とまでは言わないし、古代魔術に、シリア語やコプト語の読解力が必須、とまでは言わないが(もちろん研究者であれば必須だが)少なくとも文献にあたるとき、原語による原典を精査しているかどうかのチェックが可能なものをあたってみたらどうなんだ、と思わざるえない。
もう一つ、これも深夜にやっている妖怪アニメ。
こっちは原作のマンガのときから思ってたけど、某大家が勝手に作ってしまった「妖怪ヒエラキー」をそのまま拝借して作品の骨子にしているんだけど、多少なりとも民俗学をかじっていたりすると、これまたもう少しなんとかならんかったのか、となってしまって、もやもやする。
両作品とも、お話の方自体は十分面白いので、娯楽作品として見る分にはどうでもいいことなんだけど、日本のアニメやマンガ、ゲームが海外に出て行って、真面目に論評されてたりするのを見てると、ちょっとまずいことになるんじゃないかなぁ、という思いがチラチラするのう・・・。

*1:単に文献表がつけられているか否か、という問題ではないので、念のため。