火星の月の下で

日記がわり。

未完も作品の一形態

未完の「サイボーグ009」弟子の手で完結、WEB連載へ
VOLさんも書いてるので、ワタクシも便乗して少し・・・。
原作者のメモが残っているらしいので、それを参考に弟子と息子が完結編を作る、ということらしいのだが、「未完」も作品の一形態なんだよなぁ。。。
世の中には途中で切られたり、中断させられてしまった漫画作品は山ほどある、というか、作品数だけで比較すれば未完成作品の方が圧倒的に多いだろう。
それらに対して、切られたわけではなくて、続ける意志はあったのに(このあたり推測だけど)本人の死という物理的理由で不可能になってしまった・・・ので、多少はそういう「完結させる」という理屈は通るのかもしれないが、それでもやはり、未完成は未完成である、と思う。
モーツァルトはその短い生涯の最後に『死者のための鎮魂歌(通称:レクイエム)』を最初のところだけ書きかけたところで死んでしまった。
その後弟子が、モーツァルトの遺志と草稿を元に曲を完成させたが、あきらかにデキが違っていた。もう丸で別物だった。
またシューベルトも、短命だったがその最後近くで『ロ短調交響曲(通称:未完成交響曲)』を作曲するも、第2楽章までで、第3楽章は冒頭のところで中断してしまい「未完成交響曲」となってしまった。
だが、昔は失恋のせいだとかいろいろ言われていたこの中断理由も、最近では2楽章までの完成度が高すぎたため、3楽章以降とバランスがとれなくなってしまった、という音楽的解釈の方が主流である。
「あの名作の続きを読みたい」という心理は、ファンならばわからなくもないけど、未完も作品の一形態である。
同一作者の作品であってさえ、時間が経過すると、最初の頃の感動はどこへやら、というのはけっこう多い。ましてや、いくら遺稿、メモがあるとは言っても、血の繋がった息子がやると言っても、やはり他人である。
大衆作品は時代の息吹を受けて生まれる。
それが生まれた時代の証言者でもあり、その息吹をも我々に伝えてくれるものだ。
そんなわけで、作品の価値を落とすだけの行為にすぎないのではなかろうか。