火星の月の下で

日記がわり。

次のノーベル文学賞候補

村上春樹の次の日本人ノーベル文学賞候補がいない
なかなか面白いまとめ記事。
この中にも出てくるが、私も邦人ノーベル文学賞の最右翼として多和田葉子を上げたいと思う。
個人的には村上春樹よりも多和田葉子の方が先なんじゃないか、あるいは「21世紀のノーベル文学賞」の個性、賞の傾向からすると村上春樹よりも多和田葉子なんじゃないか、と思うことがけっこうある。
巷間言われているように村上春樹文学がノーベル文学賞候補としてよく名前が挙がっているのは、セールスがいいからでも、性的な恋愛要素がわかりやすいからでもなく、そのリアリズム描写のスタイルが評価されれているからである。
いわゆる「魔術的リアリズム」の系統を引く心理表現や行動様式、そういった点が着目されているのであって、男女間の問題とか、ましてや性的な要素など単なる装飾の域を出ていない。
だがここに落とし穴があって、その手法は長らく現代文学の最先端を引っ張ってきたのだが、ここに来てやや古色を帯びて来つつある。
現代の主流ではあるが、最先端とまでは言えなくなっている。
そしてさらに表層に現われた見える形としてアンガージュマン、これが村上文学はそれほど強くない。もちろんないわけでも希薄なわけでもないのだが。
こういった点で、よく名前は出てくるけど、ほんとに取れるのかな、という想いが毎年あるわけだ。
そこへ行くと多和田葉子のリアリズム手法はまだ未知数である。
現状で決して最先端を示しているわけでもなければ、村上文学に見られるようなギラギラした切れ味があるわけではない。
しかし綜合へと向かって行く道程のような、希望的手法がある。こういうのにノーベル文学賞というのはものすごく弱い。
アンガージュマンへの期待値としては、多和田葉子もそれほど高いわけではないけれど、総じて邦人作家は少数の例外(その多くはもう鬼籍に入っている)を除いてアンガージュマンが苦手である。
プロパガンダならできるが、それを文学的高みにまで高めていくアンガージュマン手法なると、てんでダメ。
だからこちらのジャンルでは勝負しない方が良いし、たぶんできないだろう。
以前も書いたことがあるが、現代のノーベル文学賞は創生期の頃、あるいは両大戦間の頃のような、理想主義的、歴史記述的、後期ロマン主義的作品が評価される時代ではなく、むしろその逆、リアリズムの深みや鋭さが評価されることの方が多い。
その意味で、単に翻訳点数が多いとか、売れているとか、国民的作家であるとか、お話が面白いとか、感動的とか、そういう点ではまったく評価されない、むしろ邪魔になりかねない時さえあったりする。
そういった点から感じられる多和田文学の新しさなんかは、アンガージュマン的要素こそ薄いものの、かなり可能性があるんじゃないかな、と思ってたりするわけなのよん。
場末のヨタゴトみたいに書いてきたけど、来年あたりさもあたりまえのように村上春樹が取ってしまったりもするのかな、なんて気も少しあるので、毎年期待はしないけど楽しみにはしている、といったところ。