火星の月の下で

日記がわり。

WaldeinsamkeitとWeltschmerz

「森のしじま」とは、ティーク『金髪のエックベルト』中に散見する、ティークの造語であり、同時に前期独逸浪漫主義を象徴する言葉であった。
「世界苦」とは、レーナウの、グリルパルツェルの、そして表現主義を経てトラークルにまで続く、エスライヒ幻想文学の象徴でもあった。
一般にはジャン・パウルの造語と伝えられるこの「世界苦(weltschmerz)」だが、レーナウの詩魂にこそふさわしい、と感じてしまう。

この「森のしじま」と「世界苦」の、なんという差であろうか。
「森のしじま」の背景には、宇宙があり、ぱっくりと闇に開いた深淵があり、人智を越えた哲学的広がりがある。
それに対して「世界苦」の、個人的、内省的、現実的な憂いの、なんと対照的なことか。
単なる個人的メランコリーではなく、混血と、混沌と、攪拌と、そしてなにより不純で乱雑な濁りに満ち満ちている。
だがこれこそが、人間であり、近代人であり、現代なのだ。