火星の月の下で

日記がわり。

散文の文体について覚書

久しぶりに日本文学に分類されるジャンルの小説を読む。
以前、ラノベを読むときに、読書体力が落ちてきて、半日で1冊なんてとても読めなくなってきた、と書いたが、なんかちゃんとした、という言い方はかなり変だけど、文学小説だと昔と同じペースで読めるな。
そうだとすると、読書体力が落ちてる、ということ自体は間違っていないとは思うが(50代だしね)それ以外、ラノベ独特の文体にカラダが反応しつらくなってる、てことかなぁ・・・。
上で書いた文学小説ではないが、これも先日、角川ソフィアからおしゃれな装丁で出ている現代語訳文つき『雨月物語』の原文の方も目を通したんだが、昔より早く読める。まぁ、昔読んだ内容をかなり詳細まで覚えてたから、なんだが、古典(ここでは便宜上、明治以前のものをそう扱っておく)関係も、さすがに現代文と同程度のスピードとはいかないけど、まあまあ普通に読める。ラノベより早く読めるので、内心少し驚いた。
外国語の場合、疑念のある単語や文章を、細部まで調べつつ読むかどうか、ということに対する姿勢によっても変わってくるので、外国語の小説とは少し比較はできないものの、それでも母国語なみとはいかぬものの、比較的読みなれているドイツ語小説だと、感覚としては、古典の文章に近い感じで、これまたラノベよりは早く読める。
ラノベって言ってもいろいろあるけど、比較的好きな、萌系とか百合系なんだが、どうもこれに時間がかかる。まぁ、ハイ・ファンタジーはもっと時間かかるけどね。
思うにこれは、文章の中にある情報量の差かなぁ、という気がしている。
つまり、ラノベはセンテンナスも短いし、切れるように構成されていて、曖昧さがかなり少ない。従って、文章中の情報量は少なく、ほとんど単一の意味しかもたないように配されていて、意味を重ねたいときは、カタカナ語やルビを使って視覚的に技巧を示す。
対するに、文学小説というのは、一文の中にいろんな情報をつめこもうとする。
劇詩だとその感覚はかなり薄れるけど、でもその痕跡はかなり認められる。
文章それ自体に裏の意味が潜ませてあるほうが印象として残りやすい歳になってきているのかなぁ、という思いだ。
誤解のないように付記しとくが、文に秘められた情報量の過多が、その作品のグレードにかかわる、といっているのではない。
考えてみればあたりまえのことで、ラノベにとって多くの場合、文は物語を正確に伝えるツールにすぎない。従って曖昧さを嫌うのだろう。
文芸作品、文学小説*1の場合も、もちろん物語を語るツールとしての機能は重要で、はるかに繊細な部分にまで神経を行き届かせるが、同時にそこに文体意識みたいなものがあって、その感性の型、みたいなものにも神経が行き届いていることが多い。もっとも、完全に現代作品となると、そういっていいかどうか、というのも出てくるが。
歳を取ると、こういった情報量の多い文章の方が読みやすくなるのかもしれない。

*1:文学とか文芸とか書いているが、こういうくくりは不適切だろうと思う。しかし適当な言葉が思いつかないので、一応こう書いておく。「近代散文」という、泰西文学で通用する概念が使えたら良いのだけど、日本小説(文学もラノベも大衆小説も含めて)の場合、韻律意識が希薄なので、その概念を入れていいものかどうか少し迷ってしまうのだ。