火星の月の下で

日記がわり。

美しき人狼としての『イグナーツ・デンナー』

今泉文子編纂の「ドイツ幻想小説傑作選」をパラパラ読んでいると、その解説のところで、「美しき人狼が徘徊する」『イグナーツ・デンナー』という記述があって、なるほどなぁ、と思ってしまった。
『イグナーツ・デンナー』は、当初の初稿であった盗賊物語と、夜想曲集に収載された現在の完成版とでは幾分スタイルが違っているが、どちらにしても、悪魔は出てきても明確に「人狼」をさすものはでてこない。
しかし、当時流行していた山賊物語、盗賊団の凶行といった類似のモティーフを扱ったであろうと思われるグリルパルツァーのデビュー作『祖妣』と同様、山野をかける神出鬼没の山賊の魔的な姿に、人狼の映像は容易にかぶさってくる。
『祖妣』の場合は、まだボロティン家に伝わる幽霊によって翻弄される側であるが『イグナーツ・デンナー』の場合ははるかに動的である。
もっとも最後には、その悪魔的出自によって、実はデンナー自身も黒い魔の力によって操られていたことがわかる仕組みだが、まさにこれは山野を駆ける美しくも悪しき怪魔の姿である。
人狼の小説、というのは、民間童話等で伝えられたものがはるかに有名、というか、映画なんかのモティーフになっていることが多いが、17世紀から19世紀中ごろまでに書かれた、森の怪異、山谷の凶賊、に仮託されたものは、あまり日本では受け入れられていないように感じる。
『デンナー』の、前半のアンドレアスの物語、中盤の本性を出したデンナーの物語、そして終結のデンナーの過去、というのが、鮮やかな対比を示し、かなり崩れた姿をとってはいるが、結社小説の趣も秘めていて秀作である。
美しき人狼かどうかはひとまず置くとしても、敬虔な信仰家の懐に入り込んでいく姿には、その出自が語られるまでもなく、なにか人ならざるものがうごめいている。
盗賊小説、という観点で考えるとき、この時代の多くのものはシラーの『群盗』からの影響を取り上げられることが多いが、それはかなり強引なこじつけ、と感じることもある。
むろん影響はあったかも知れないが、むしろその精神としては『魔弾の射手』の方に見るべきではなかろうか、正確には『魔弾の射手』のモティーフとなった『猟師の花嫁』であるが。
そちらにも、狼の魔のイメージは充溢している。
人狼の魔は、奥深き漆黒の森、幽谷連なる山野にこそふさわしく、決してハリウッド形式の都会に闊歩する姿ではないのである。