現代文学の難しさ
ベルンハルト、イェリネク、ファスビンダーといった「ドイツ現代戯曲30選」を昨年から折にふれて拾い読みしてるんだが、現代文学の難しさ、というものをあらためて感じるようになった。
内容が難しい、ということではなくて(難解なものもあるけど、そういう意味ではなくて)こういった作品を外国人である我々がどう評価し、どう頭の中に格納していくか、ということなのだ。
現代戯曲史において、叙事的文学手法というのは、賛同するにせよ否定するにせよ、もはや無視できぬものになっている。
ワタシはブレヒトは嫌いだし、芸術という観点で見た場合、彼の演劇は所詮、創造からの逃避に過ぎず、舞台芸術をパンフレットに堕してしまったとさえ思っているのだが、その手法に対しては、十分に考え、取り込んでいく価値があると思っている。
だがここで一つ問題があって、本邦の文学プロパーの態度、姿勢において、常に作品への共感、もっと極端に言うと「感情移入」ということが、現代作品の価値の一つとして取りざたされることがあって、そうでない叙事的文学手法というものが、まるで「例外なくそのすべてが共産主義文学」であるかのように受け止められ、ハナから相手にされていない、といった側面を感じるからである。
現代の演劇文化は、もうこの叙事的文学手法を消化し、乗り越え、さらに先へ進もうとしている。
だが本邦では依然として旧世代のロマンスに酔いしれるようなところがある。
これが国内文学において、というのならそれはそれでいい。
だが「世界文学」を考えるときに果たしてそれでいいのか、ということが常に頭から離れないのだ。つまりそういう難しさ。
ここで具体例を挙げてグダグダ書いていってもいいんだが、まぁ、日記なんでこの辺にしておく。