火星の月の下で

日記がわり。

○『国家篇』に見るケパロスの回想

プラトンの大著『国家篇』においては、そのほとんどをソクラテス(・・・の名を借りたプラトン本人)が語り、対話篇というよりも、プラトンイデア論になっている著作で、かの有名な「洞窟の比喩」などもここに登場する。
その『国家編』の冒頭、ソクラテスがその3人の友人と対話をする導入部があって、そこに実に興味深いことが書かれている。
以下、ケパロスの回想。
ある男が劇作家ソポクレスにこう問うた。
「ソポクレス、歳をとって愛欲の楽しみはどうなった?女と交われるのか?」
これに対して、ソポクレス曰く、
「よせよ、私はそれから逃れ去ることができて、無常の喜びになっているのだから」
「狂暴で猛々しい暴君の手から、やっと逃れることができたのだから」
若いときにこれを読んで、けっこう感銘を受けた。
愛欲の欲望が薄れること、それは悲しいことではなく、むしろ賢者、仙人への昇格なのではないか、と。
だが、実際に自分がその老齢に近づいていくと、ことはそう簡単ではないな、と思い出している。
私個人としては、かなり衰えたとはいえまだ男性機能は健在であるが、それが枯れ果ててしまっている老人の知り合いから、以前「たたなくなっても、夏、女子高生をみるとムラムラする」みたいなことを聞かされたことがあった。
はたしてプラトンは、この発言を記したとき、枯れていたのだろうか、それとも想像で言っていたのだろうか。尾籠なことではあるが、やたら気になる。
それはともかく、暴君からの解放、というのは言い得て妙で、若いときにはムダに思考を中断させられることもあり、まさに「暴君」といった感じだった。
どのみち結婚はしないし、性的な交渉ももう2度としないだろう、と決めていたこともあって、この暴君から解放される時がくるのか、というのはけっこう考えたこともあった。
ただ同時に、暴君が去ることで、美しいもの、なまめかしいものを見て、感性がはたらかなくなる時もまた来るのだろうか、という畏怖もあった。
しかし、どうやらその心配はなさそうである。
病気等によって失効してしまうのならともかく、健常でさえあれば、たぶん死ぬまで頭の中に暴君が居座り続けそうだ。