火星の月の下で

日記がわり。

『隅の老人』最終話の物語技法

本名も素性もわからぬ謎の老人が、カフェの片隅で座りながら女性記者相手に悪魔的な皮肉を交えつつその推理を開陳する、バロネス・オルツィの『隅の老人』を創元推理文庫版で読んだ。
時に安楽椅子探偵の代表のように言われるこのシリーズを最初に読んだのは今を去る40年以上前、中一コースだったか中二コースだったかの学習誌についていた付録の小冊子であった。
そこには隅の老人の短編2〜3編と、あの印象的な最終話が掲載されていた。
そのとき、隅の老人が座ったままで推理を展開していく方にはそれほど優れたものという感覚はわかなかったが、「最後の事件」だけは相当に深いインパクトを与えられた。
そう、『隅の老人』最大の傑作は、この「最後の事件」にあった、と思っているし、今回あらためて連作短編として読んでみてその想いを強くした。
時代は20世紀初頭、第一次大戦前で、まだ黄金の20年代(Golden Twenties)はもとより、ノックスの『陸橋殺人事件』によって幕が上がる英米本格推理の時代ですらなかった。
フットレルの「思考機械」シリーズとともに、大ヒットしたホームズもののライバルとして現われた短編ミステリの中の一シリーズである。
著者は『紅はこべ』の著者として知られるバロネス・オルツィ
ハンガリーの名門貴族の娘に生まれながらもある事情で家族ごと祖国を離れ、英国に帰化
その後主として歴史小説を書いていたが、あるとき思い立って書き始めたのがこの『隅の老人』シリーズ。
能動的に動き回るのではなく、資料を主材料として推理する安楽椅子探偵の代表として、たいてい名前があがる個性的な人物である。
その聞き手はイブニング紙の有能な女性記者ポリー・バートン女史。
たまたま居合わせた「ABCショップ」というカフェでその老人と知り合い、最初は不快感を持っていたものの、その推理の切れ味、悪魔的なシニカルさにどんどんひかれていく、というのがだいたいの枠組み。
だが今日の視点では、いかにも古ぼけた状況と捜査方法で、現代的なトリックの秀逸さ、というのはかなり少ない。
もちろん『リッスン・グローヴ事件』のように100年前に書かれたにしてはなかなか面白いものもあるけれど、多くが入れ替わり、すりかえのトリックで、今日のミステリになれた目にとっては、それほどの斬新さを感じないものが多い。
だが読者は巻末の「最後の事件」でまさに度肝を抜かれることになる。
この手法自体はその後多くの作家が使っているので、そういうものに慣れているとトリックそのものの目新しさには惹かれないが、その「物語としての結末」にはなにか不思議な違和感というか、鼻をつままれたような、不思議な気分になる。
間違いなくこの最後の作品でもって、『隅の老人』シリーズは多くのホームズ作品に互せるだけの魅力をたたえるようになった、と言ってもいいのではないか。
しかもこの最後の作品は、それまでの短編で見せてきた、この特異な老人の個性が下敷きになっているので、この「最後の事件」だけを読んでもまったくその魅力は伝わらない。
犯罪の背景もはっきりしないし、結局何がどうなったのかも明瞭に語られたわけでもなく、物語は唐突に終わる。不思議な綺想感覚とともに。
その意味で中学時代に読んだ『隅の老人』は、中学生向けにリライトされていたけれど、なかなかよくわかった編集だった。
「最後の事件」だけを載せたのではなく、そこに至る老人の個性が明瞭に判別できる短編とともに載せていたからだ。
思うにこれは短編集の態をなしてはいるが実はゆるやかな長編であった、とも言えるだろう。
そこに至るまでの老人の推理は、全てこの巻末の事件のための伏線だった、とさえ言えるからだ。
そしてそのことは誰にでもわかるように最初から仕込まれていて、作者オルツィはこの結末を最初からしっかりと想定した上で筆を進めていたと言える。
コナン・ドイル自身にホームズものとして4つの長編があるように、このホームズ時代にも長編小説が書かれなかったわけではないが、多くは短編であり、当時の掲載雑誌の事情ともうまくリンクしていた、まさに短編時代だったのである。
そのことを思うと、優れた長編歴史小説の書き手でもあったオルツィが短編集のふりをしてまんまといっぱいひっかけてしまった偽装短編集とも言えるかもしれない。
それほどにこの巻末の「最後の事件」への収束が見事なのである。
たとえばコナン・ドイルでさえも「最後の事件」への演出には成功していない。失敗とまではいえないけれど。
二次創作等ではさながらホームズのライバルのように設定されてしまうことの多いモリアーティ教授との「最後の事件」にしても、うまく決めたはずだったのに、結果的には再登場させられてしまう。
そのことを思うと「最後の事件」以外の個々の事件、トリックではどう考えてもホームズや思考機械、ソーンダイク博士ものの方が上だろうけど、ミステリとしてではなく、物語としての閉め方、という点では、これ以上ないくらいにうまくまとめたミステリであっただろう。
加えてこの老人の個性。
名前も素性もわからない。老齢である、という事以外は年齢も不詳。
少し足を引きずり、痩せこけてほとんどはげ上がったといっていいくらいの頭髪。
神経質そうな指先でいつももて遊ばれている紐の切れ端。グロテスクさを感じさせ、人を小馬鹿にしたような視線。
明確で鋭い推理を開陳しながらもそれを警察にもっていこうとは毛ほども思わず、自分はむしろ知性に優れた犯罪者の方に共感する、と言ってのける姿勢。
にもかかわらず、明るい太陽の側にいる女史でさえひきずりこまれてしまう推理と、話術の妙味。
素性はまったくわからず、ときどき「前職は海事関係者ではなかったか」という推測が入る程度。
探偵小説史上、個性という点ではかなり突出した存在だろう。
今回、数十年ぶりに読み返してみて、やはりこの老人の個性の方にひきつけられてしまう自分がいた。
ミステリとして、というよりは、老人の物語性にひきつけられるのである。