火星の月の下で

日記がわり。

創元文庫・怪奇小説傑作集の頃

1970年代というと、あまりに生々しく感覚が残っているので、どうも時代評価はしかねるというか、できない感覚になっているんだがそれでもさすがにこの年齢になってくると、客観的な評価は依然としてできないが、主観的にはいろいろと「ああ、そういう時代だったなぁ」と思い出してくることもある。
創元推理文庫怪奇小説傑作集全5巻の第1巻が登場したのが、1969年2月のことで、いつ買ったのかは憶えてないが、たぶんこの年のうちに、少なくとも第1巻は購入していたと思う。
全5巻の構成が、第1巻〜第3巻までが英米編、第4巻がフランス編、第5巻がドイツ・ロシア編となっていて、当時どっぷりと首までドイツ幻想小説に浸かっていた身としては、なんでフランスみたいなとこに1巻与えて、独・露が合本で1巻なんだ、と少々不満に感じたものだったが、これは第4巻の編者であった、澁澤龍彦氏の力量によるところが大きかったのかなぁ、と、今では思っている。
ただし本全集の魅力は、なんといっても英米編の前3巻で、独、露、仏の3国では、ちょっと編者が勘違いしてるのか、真意を把握しきってなかったのか、あまり面白くなかった。まぁ、面白くなかった、というのは作品が面白くなかった、という意味ではなく選考された作品が偏っていた、そういう点に対する面白くなさであった。
当時既に怪奇色、恐怖色の強い独・墺の小説は本流の幻想文学と平行してそこそこ読んでいたので「なんでこれを選ぶかなぁ、なんでこれが入ってないかなぁ」という不満であった。
この3国について書くのが今回の本題ではないので、戻って、前3巻の英米編から。
英国が恐怖小説、怪奇小説の本場である、というのも、ドイツ幻想文学にどっぷりはまっていた頃から感覚としてはかなり明瞭にあった。
浪漫主義や近代幻想文学は、英文学畑の人は英国ルーツを説く人が多いが、ワタクシは断然ドイツがルーツだと感じていた。しかしそれでも、近代幻想文学のルーツはドイツでも、近代怪奇・恐怖小説のルーツは英国であり、今日に至るまで本流だろう、という感覚はあったのである。*1
そんなおりに出たこのアンソロジーだったので、それこそむさぼるように読んだ。
ホーソンの名作『ラパチーニの娘』とか、レ・ファニュの『緑茶』、サキの『スレドニ・ヴァシュタール』などのように、既に読んで知っている名作もあったが、大半が未読のもので、それこそワクワクしながらページを繰っていたのである。
巻末の解説が英米怪談翻訳の比類なき名手、故・平井呈一氏で、それによると、文庫による怪奇小説全集というのは、この時点で本邦初だったようである。
たしかに言われて見れば、それ以前は、個人全集の中からそれらしいものを拾ってきて読んだり、原書購読だったような気がする。
その中から、30年以上たっても明瞭に細部を憶えているのが、ジェイコブズの『猿の手』、アダムスの『テーブルを前にした死骸』、ディケンズの『信号手』で、それこそ一読ぞっとした感覚まで憶えている。
特にアダムスの『テーブルを前にした死骸』は、10ページにも満たない掌篇で、まさに恐怖のエッセンスがつまったような、怪奇小説の見本のような作品だった。
数年後、たぶん73年か74年頃だったと思うが、MBSラジオで深夜の朗読ドラマとして放送されたこともあり、そのときにも、結末とそのトリックは知っているにも関わらず、異様な感覚を憶えてしまったことを思いだす。
猿の手』『信号手』『緑茶』『泣き叫ぶどくろ』(クロフォード)などはその後、他の選集でも普通にみかけるようになったし、『炎天』(ハーヴィー)は水木しげるが『暑い日』というマンガ作品に直していたし、この中の作品群も個別にいろいろと有名になっていった。
なかでも一番は、ラブクラフトの『ダンウィッチの怪』で、今となっては、一番好きなラブクラフト作品は本作よりも『インスマウスの影』だし、『アウトサイダー』『狂気の山脈』『ダゴン』といった作品の方が肌にあうが、ワタクシのラブクラフト初読作品は本作だった。
同じ創元推理文庫からその後、ラブクラフト全集が出たが、この怪奇小説全集第3巻所載の『ダンウィッチの怪』が、後の本邦におけるクトゥルー神話大流行の原因のひとつにもなっていたんじゃないかな、という気は少ししている。
ともあれ、この1〜3巻に収められた英米怪奇小説集はどれも折り紙つきの名作ぞろいで、日本における英米怪奇小説の土台のひとつになったのではないか、とさえ思えてくる。
もちろん、さすがに30年以上前の選集なので、いささか古いところあるし、あるいはその後の読書体験なんかで、ここに載っていない名作などを知るようにはなったけど、やはりこの選集がスタートになった部分は大きかったのである。
その後、角川から「怪奇と幻想」と題して全3巻のアンソロジーが出た。1975年のことである。
こっちは国別の編纂というスタイルはとらず、テーマごとの分類で、第1巻が「吸血鬼と魔女」、第2巻が「超自然と怪物」、第3巻が「残酷なファンタジー」。
やや遅れて同年、ハヤカワから「幻想と怪奇」2巻が出ている。
たぶん他にもいくつか出ていたと思うけど、書棚の手の届くところにあったのがこのあたり。まさに1970年代は、泰西怪奇小説・アンソロジーの百花繚乱のような時代を呈していた。
角川の全3巻の方には、クロフォードの『血は命の水だから』(第1巻)、モーパッサンの『オルラ』(第1巻)、ハヤカワにはロバート・ブロックの『ルーシーがいるから』(第2巻)等、大好きな作品もいくつか含まれているのだが、既読のものが大半だったこと、SF色の強いものがいくつかまじっていたこと等から、さすがに創元推理文庫のときのような感動、とまではいかなかったが、それでもかなり熱中して読んでいたのだ。
現在では怪奇小説ジャンルは、もうすっかり定着してしまっており、むしろその中からさらに細部、クトゥルー神話とか、吸血鬼ものとか、超能力もの、と言ったように、さらなるテーマ別に確立してしまっているようではあるので、往時のインパクトは個別の作品の上にはあっても、アンソロジー全体で受ける、というようなことなくなってしまっているのかもしれない。
こういった70年代の選集、全集から、数多くの魔導師、奇人、預言者達が旅立っていったのである。
そんなことをほのかに思い出す、黄金週間、こどもの日であった。(^_^)

*1:ラブクラフト登場以降、米国に一部移ってしまったようなところもなくはないが。しかしそれであっても、言語圏で見た場合の、英語圏怪奇小説、としてみてみれば、こういう範疇で理解してみても、そう間違いでもないだろう。