火星の月の下で

日記がわり。

シュネデール『フランス幻想文学史』

昨日書いたように、シュネデールの大部の本を枕元において拾い読みをするここ数日。
大昔通読した頃には、通史や言葉の定義について、それほど頓着してなかったけど、取り上げられている作品がだいたいわかってきた今となっては、通史やことばの定義の方が面白い。
以下、拾い読みなので、この書の感想という形ではなく、これによって思いついたこと、思い直したことなんかをパラパラと記録していく。
・近代幻想の立脚点。
書名が『フランス幻想文学史』であるから、当然のように、フランス国内での通史、影響、概念やジャンルの定着なんかが語られているのだけど、その中で面白かったことのひとつ、近代幻想の出立点。
本書では、「幻想以前」「幻想」「幻想以後」の3部に別れ、近代幻想文学成立以前のことを「幻想以前」として詳述してくれているのだが、これが、独・英・露・伊、などと大きく違っていて興味深い。
さらに加えて、ことばの定義から出発しているので*1フランス人の研究家達は、フランスにおける「幻想」の定着を、明瞭に定義できる。
対して独・英などは、19世紀まで下らないと近代幻想が登場してこない、というのはあまり考えないし、ことばの定義にもそれほど頓着はしない。
この点、フランス人の文学評論の方が精緻である、と言えるが、同時に独・英の、幻想文学気質の根の深さ、にも原因があるように思う。
独・英の近代幻想は、17世紀、遅くとも18世紀初頭のゴシックの大流行(英国は少し遅れるが)あたりを出立点とするだろう。そのことは『シラーの幽霊劇』にも少しだけ触れられていた。
なるほど、フランスにも「conte fantastique」成立以前に、偉大なる先駆者、ジャック・カゾットが18世紀にいた。
だが、今日、我々が1782年に著わされたカゾットの名作『悪魔の恋』と、ノディエが1832年に著わした傑作『パン屑の妖精』とを読むとき、まったく違う時代の断絶を感じるのではないだろうか。
どちらも幻想文学の優れた傑作である、という点は変わりない。
しかしその背後にあるもの、渦巻く狂気こそはまだそれほど目立ったものではないとしても、「幻想」を見る人間へのアプローチ、という点では、半世紀どころではない隔たりを感じてしまう。
こういった点がフランス人の、冷静に「近代幻想」を見る視点、あるいは認識の仕方がうかがえて面白いと感じる次第だ。
もうひとつ、ジャンルについて。
中世の妖精物語や騎士物語、魔法小説や魔術小説は、近代幻想としては認めがたい、という感覚(明言されているわけではないのでこう書いておく)は、私が神話・伝承や、中世の奇跡譚を近代幻想へは含みにくい、という点と共通しているので、我が意を得たり、と感じている次第だ。
そう、中世から啓蒙の時代にかけて書かれていた魔法小説の多くは、近代幻想とは相容れぬものが多くある。
それは、語り手も聞き手も、それを「幻想」とは感じていなかったから。
個人が存在しないところに、近代幻想は存在しない、現代幻想文学が既にその枠を超えてしまっているので、もう少し正確に言うと、少なくとも近代幻想の立脚点にはなりえない。
ただし、素材としての魔術、魔法は別であるが。
もちろん、作家の創造は、時としてジャンルや枠を超えてしまうので、幾多の例外はあるとしても、大枠として、こういった線引きが可能になる、というのは、比較的後から近代幻想文学に参入してきたフランスだからこそ、明確にできた点だと思う。
その他いくつか思うところがあるが、また気づいたときに付記していこう。
ある程度の読書体験を経て再読すると、こういった通史は新たな発見があるものである。
最近気になっている、現代幻想文学、この線引きもどこに求めるかは難しいけれど*2、その異相についても考えてみたいけど、それはもう少し先になるかな。

*1:たいていのフランス幻想文学評論においては、この言葉の定義から出発する、というのは、かなり特徴的、かつ個性的だと思う。これはひとえにフランスの場合、「conte fantastique」ということばが、書名として、ジャンルとして登場した日がはっきりわかっているからである(1828年8月2日)。もちろん、「conte」も「fantastique」ということばもそれ以前から存在したが、それに明瞭な意味をつけた日、というのが確定しているから、という特殊事情もある。

*2:おおまかなところで、1945年以降、というのを想定しているのだけど、それだと偉大なるボルヘスの多くの作がもれてしまう。