火星の月の下で

日記がわり。

文庫クセジュ11『ドイツ文学史』(アンジェロス)

アンジェロスの『ドイツ文学史』(1966)も最近枕もとにおいて拾い読みしている。
文庫サイズのドイツ文学史としては岩波文庫別冊のものもあるし、掲載されている情報量としてはそちらの方が断然上なのだが、当方の知りたいこと、つまり18世紀末の文学運動と、そこに至る要因という観点だと今でもこの書の方が読みやすいし、一本筋が通っている。
日本での発刊は1966年(昭和41年)だが、原著の初版が1942年、邦訳時に参照にしたであろう第三版が1948年なので、当然戦後文学や、戦中であっても戦後につながるものはほとんどない。
フランスにとっても、隣国の狂気によってもたらされた大戦の災禍、その爪痕と悪夢のような記憶がまざまざと残っていた時期(初版であればその渦中)であったろうから、この隣国への関心は高かったはずだが、にもかかわらず、そこは文庫クセジュ、一貫して当時の知的興味として眺めているのが好感もてるところ。
文学史と言えども、時代の影響は受ける。
邦人学者による各国文学史が、その折々の時代の色を残しているのは当然というか、もう仕方のないところで、読む側もそれを理解したうえで情報を摂取していかなくてはならない。
ここ半世紀の間に出たものの中では東京大学出版会のものが偏向甚だしく、ちょっとゲンナリした記憶があったから。
情報量が大いにもかかわらず、その極端な現代偏重には、18~19世紀を主として読んでいる身としては「なんで削るかなぁ」と感じた箇所が多すぎたのを覚えている。
もっともそれ以前の邦人著のドイツ文学史では異様なほどのゲーテ偏重だった時代もあるので、どっちがいいというものでもない。
だが大部の書と違い、こういう新書・文庫形式のものであれば、やはりその時点での客観的記述が主体であってほしい、と思ってしまう。
文庫クセジュは(少なくとも国内で邦訳、刊行されているものついては)知的、客観的記述への欲求を一番満たしてくれる、というのがワタクシの感想、というか信頼。

さて、その17~19世紀初頭についてだが、150ページに満たない小著にしてはよくまとまっているし、必要最小限の情報がある。
ワタクシが文学史に求めるものは、マルティン・オーピッツからアテネーウムの創刊までの近代ドイツ語文学が成立する動的な時代にあるので、このあたりの記述比率が高いのが気に入っている。
18世紀後半から末にかけての、啓蒙主義、疾風怒濤、浪漫主義、そしてゲーテ・シラー時代と、一斉に花開くこの時代の準備段階として、17~18世紀中盤の重要さについて、かつてのようにしっかりと視座を据えてほしい。
このクセジュの好著を寝る前にぼんやりと眺めていると、いい感じで充足感が得られるのである。

1987年のパソ通事情

「【ログイン1987年7月号】ネットワークが面白くなる大特集」
(p://jiraygyo.com/login053)・・・駄文にゅうすさん経由。
すげー懐かしい、つってもこの記事自体は知らないというか、たぶん見ていない。
以前にもどこかで書いたけど、80年代にオープン・ネット技術系のソサエティにいたこともあり、パソ通よりも民生移管直後のインターネットの方を先にやってたので、パソ通にはまりこんだのはぺけろっぱーことX68000を自宅に迎え入れてからのこと。
これのちょっと後くらいかな。
インターネット初期の「接続設定のややこしさ」を体験していたので、パソ通の方が接続設定は簡単だった記憶。
この「キミも300ボーに挑戦」とか「300bbs? 1200bbs?」ってあたりが、映っている画面以上に当時を思い出させてくれる。
最初の頃のインターネットって「電子メール」(しかも2バイト文字は理論上は可能、実際の運用は限りなく不可能に近かった)でしか遅すぎて実用できなかったしなぁ。。。

そんなわけで、その後、たぶん90年前後にパソ通にはまりこんでしまったのって、
・日本語で打てる!
・画像のやりとりが楽しい!
・趣味が語れる、読める!
…このあたりがすこぶる楽しかったからなのだ。
そしてそのあとすぐにやってきた、makiちゃんショックとpicの走るイナヅマショック。
X68では最初、zimなんて使ってたんだぜ~(笑)

このあたり記憶で書いているので、順番がおかしいところもあるかもしれんけど、Win95以前のネット世界っていろいろ楽しかったなぁ、とぼんやり思い出にふけってしまうのでありました。

研究社版『Rappaccini's Daughter』

強毒少女ものの傑作、ホーソーン『ラパチーニの娘』は本邦でも何種類かの邦訳が出ているが、私の持っているのは次の3冊だけ。
怪奇小説傑作集3(東京創元社1969)
・研究社小英文叢書245(1976)
・毒薬ミステリ傑作選(東京創元社1977)
ただし、怪奇3と毒薬ミステリは同じ訳者による同一のもの。
「毒薬ミステリ傑作選」は読みたい作品が他にあって、購入したらたまたま入っていた。
今回は研究社版で再読。

対訳はついていないものの、Noteが事実上の対訳か、というくらいに細かな注になっていたので、たぶん高校卒業程度(あるいはもっと下でも)普通に読めるかな、という感じ。
もっともNoteはほとんど必要なく、普通に邦訳を読んでいるような感覚で読める。
イングランド語っていうとふだんは沙翁やマーロウ、リリーといったエリザベス朝演劇を中心に読んでいるので、ホーソーンくらい現代に近いとたいへん読みやすい…といっても19世紀作品だが。
感想としては、若いころ読んだ邦訳とさして大差ないのだけど、今読んでも普通に面白い。
ただ筋を知っているってこともあって、原文をあたるとジョバンニとベアトリーチェよりも、下宿のリザベッタ老女(邦訳では「婆」が連発して出てくる)とか、ラパチーニのライバル・バリオーニの描写の方にいろいろとひかれてしまうところもあったかな。

美しい少女が強い毒そのもので、その姿、心に惹かれる若者に悲劇が待っている、というのは、近世中近東の冒険譚あたりからチラチラ見える素材ではあるけど、本作はそこに有毒飼育による衰弱の要素をあまり入れず、その毒香が青年の方に伝播していく、というプロットを追加してうまい具合にまとめている。
吐息が毒となり死と背中合わせであるという恐怖よりも、なにか得体のしれない霧に閉ざされたむこうの世界を覗き見ているような、またベアトリーチェも「少女の姿をした何か」のように感じられるところもある。
よくできた短編だと思う。
もっともわしらの世代だと『伊賀影』の村雨兄弟を連想してしまうのではあるが。

『算法少女』を読む

なんか『算法少女』がアニメ化しているらしいので、良い機会だから再読してみた。

70年代に児童向け単行本として出た遠藤寛子氏の『算法少女』がちくま学芸文庫で復活したのが2006年。
70年代に書名だけは知っていたがその時は読んでおらず、ちくま学芸での復活直後に購入したものの、積読状態だったので、引っ張り出してきて通読。
ところがかなり筋を覚えていたので、買った直後に一度読んで、忘れてたのかな・・・。
もともとが児童書だったこともあってすいすい読めるし、それで逆に記憶に残りにくかったのかもしれない。
今回読み直してみて、児童向けとしてはよくできてるし、読みやすいし、人物造形などはいささか古臭くはあるけど、むしろそこに昭和40年代当時の学齢期文学少年・少女たちの志向が垣間見えていたりして、かえって心地よい古臭さ。
加えて適度に史実を交えていることもあり(つうか筋の骨格は史実なのだけど)江戸時代の貧しいけれどもインテリ庶民という像がうまく好奇心をつく展開になっているし、文だけでなく、素材もうまく扱っている印象。
ただそれらは「児童書」として優秀ということで、「数学少女モノ」として読むといささか物足りない。
作者が純粋の人文系出自の教育者ということもあってか数学的なセンスがあまり感じられないこと、前半こそ和算の問題や当時の状況あたりがうまく説明されていて知的刺激もあったものの、後半にいたって「算法少女・千葉あき」の物語が主眼となるため和算の存在がかなりうすれてしまっていたこと、などが一因だろう。
とはいえ、作品としては面白いし、素材の料理方法と着眼点が良いので、作品としての立ち位置とかを思うと、そういった点はそれほど瑕疵にはならないと思う。
和算」のところをもっとつっこんでやってほしかった、というのは、つまるところ、ワタクシの個人的感想。

それにしてもアニメになっていた、というのは気づかなかった。
ようつべで予告編が見られるみたいなので見てみたんだが、日本昔ばなしみたいな、絵物語的なヤツなのでアニメとしてみるには少し厳しいかもしれないけど。
とはいえ、機会があればぜひ見てみたいものなのだが、関西上映会は三月に京都で一度あったみたいなので、またしばらくはないかな。

古書市、がらくた市に行けなかった・・・

本格的に夏バテ。
たぶん熱中症まではいっていない、と思うのだが、どうも家の中でさえ歩いていてフラつく。
熱こそ出てないものの、この状態で遠出するのは危険なので、昨日、本日と、予定していたサンチカの古書市、東寺のがらくた市は行かずに、家で静養。
水分補給と塩飴で回復しつつある・・・と思うんだけど、こればっかりは明日以降になってみないとわからない。

室温45度

各地で熱中症が起こる酷暑の中、うちでもエアコンのない部屋に温度計を置いていたら、夕方頃、45度を記録。
エアコンの効いた部屋にずっと入っていると、出た時の落差にカラダが過剰反応してしまいそうだ。
連日35度を超える異常気象下だと、エアコンなかったら死者が出るレベルにまで達している。

熱中症は室内でも起こる。
熱中症は翌日に持ち越されることもある。
ニュウスで聞いた話題のいくつか・・・けっこう真面目に対策せんといかんレベルであるな、とくに老齢の人間にとっては。

それと気になるのは、暑気肥り。
あまりの高温でカラダを動かしたくなくなってしまうため、体重が増えてしまいそうだ。
例年、冬に肥った分を夏に落としていたので、こっちの意味からでも健康に注意かもしれん。

帝政期生まれのプラハっ子が見た「魔術の都」

最近まくらもとに「ドイツの世紀末シリーズ」第2巻『プラハ ヤヌスの相貌』を置いて、寝る前にちびちび再読しなおしているんだけど、昔はそれほど意識しなかったウルツィディールの描くプラハ点綴、カフカを軸としたプラハ文人の描写が面白く感じられるようになってきた。
モルダウ川西岸に展開する旧・王城地域、クラインザイテと、魔術皇帝ルードルフ二世により集められた錬金術師が数多く住んでいたという錬金術師小路。
カレル橋などによりその東岸にひしめく旧市街。
環濠グラーベルを境としてその旧市街南に展開する新市街。
魔術都市を構成するこの3つの区域のうち、とみに有名だったのが、ユダヤの秘儀とゴーレム伝説に彩られた旧市街で、各種ゴーレム小説の愛読者としてはまるで第二の故郷のごとくにおなじみの地域だ。

かのフランツ・ヴェルフェルの親友にして幼馴染・ヴィリー・ハースによって描かれる19世紀後半に生を受けた、ヴェルフェル、リルケ、ブロートら文人たちの新市街に始まり、作家、評論家たちの「プラハ」が次々と描かれていく。
そしてゴーレム伝説の章で、ウルツィディールが再登場し、かつてこの錬金術師小路に住んでいたことのあるカフカを取り上げ、次のように語る。

しかしながら、フラチーンの丘の錬金術師たちの世界と、旧市街円形広場のすぐ裏手から始まるプラハユダヤ人街の、律法師(ラビ)が治めるゴーレム勢力圏とは、ただカール橋によって相互に結ばれているだけでなく、歴史的、内面的にも強く結びついていた。(117頁)

この一文だけでも、第一次大戦前、都市の中にさまざまな魔術、錬金術の香りがたちこめ、都市全体を包み込んでいた空気が想起させられる。
さらにウルツィディールはこのプラハの雰囲気を中心に据えていた存在としてカフカを見、その対象として『ゴーレム』を書いたマイリンクを取り上げ「一切を幻想化するぺてん師的神秘主義」とこきおろすのだ。
プラハに生まれプラハに育った生粋のプラハっ子には、庶子とはいえドイツ名家の血を引いていたウィーン生まれのマイリンクが「ほんの少しプラハの学校に通っただけ」と映っていたようだった。
さらにカフカ自身がマイリンクを嫌っていて「縮んだ針ねずみ」と呼んでいたこと、ヴァルター・フュルトがマイリンクのことを「人造人間」と呼んでいたらしいこと等をあげ、世間じゃマイリンクをプラハ人の代表みたいに思っているヤツが多いが、あんなヤツはプラハっ子じゃねぇ、とキメウチしているのがなんとも面白い。(もちろんこんな下品な表現ではないけど)

あるいはまた、チャペックの『R.U.R』*1を取り上げ、そのルーツに高位のラビ、レーフ師のゴーレムを挙げて、ここにつながっていることや、ゲーテの『ファウスト』第二部で登場する、フラスコの中のホムンクルスについても言及し、これら人造人間の系譜について関連性を語ったりしていて、とても面白かった。
ゴーレム→ホムンクルス→ロボット・・・これらがこの魔術都市にかかわりを持ち影響を与えていたこと。
プラハ(私にとって「プラーク」の方がなじみがあるのだが)の見せる魔術的諸相がいろいろと語られていたのだった。

マイリンクがけっこうやり玉に挙がってるけど、私はカフカと同じくらい好きだけどね。
方向性というか、テイストはかなり違うのだけれども。

*1:直訳すると『ロッサムのユニバーサル・ロボット会社』邦題名ロボット:ロボットの名前を生み出した劇として有名。ただしこの劇中のロボットは、現代のメカメカしいロボットではなく、有機的な疑似生命、あるいは人造人間のような扱いである。